
旧坂北村内には宿場の一つに青柳宿があり、その東方に位置する城山の山頂に目指す青柳城跡がある。
筑北村役場前から旧街道と分岐して農道を行くと、間もなく古刹の風貌を見せる碩水寺に至り、野菜の畑地を上がり切ると青柳城跡である。復元された大手門、物見櫓からやや下りながら、両側が急斜面の尾根伝いに本郭を目指す。途中には七条の堀切と大小8カ所の郭を擁していると記されており、長い風雪に耐えていずれもその原形をとどめている。
戦国期の城主は麻績氏の一族で、主に筑北村を統治していた青柳清長と頼長。青柳氏は松本の小笠原氏、上杉氏、再び小笠原氏に臣従したが、天正年間に頼長が深志城内で誅殺されたことにより青柳氏は滅亡したという。
その後、武田信玄が川中島地方に進出する拠点として城郭の改修を行い、10日間滞在したと記されている。
戦国時代中期では武田氏と上杉氏が、後期では松本の小笠原氏と上杉氏が4回に及ぶ攻防戦を行うなど、数多い実戦のあった山城である。
当城は本郭への虎口、曲輪(くるわ)、堀切、石垣、土塁などの遺構をよく残した中世の山城である。本郭からは北アルプスの連峰を望むことができ、眺望抜群で冠雪を頂いた山容にはしばし目を奪われる。
帰路は青柳宿の家並みを見ながら旧街道を通過する。石垣の中に水路を通し、家々の玄関先に用水をためた洗い場があり、先人の生活の知恵がうかがわれる。約600メートルに及ぶ青柳宿は建物こそ一新されているが、随所に宿場の街道をしのばせるものがある。
また、街道から少し山側に小路を進むと、青柳氏居館跡に立つ静長寺があり、風雪に耐えた鐘楼門はひときわ目を引く。
青柳の切通しは青柳氏最後の城主となった頼長が1580(天正8)年に切り開き、麻績と青柳の通行を容易にしたといわれる。
(2011年3月5日号掲載)
=写真=復元された青柳城跡の大手門