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22 脳死−新しい死(中)

 長い人類史上にあっての死の判定基準は、息をひきとる/目を落とす/冷たくなった、など日常生活から体験的に生まれた社会通念としてのものであり、それは誰にも「分かる死」であり、「見える死」であり、"伝統死"と言えるものであった。

 分からない死と
 見えない死

 ここで言う「新しい死」とは脳死を指す。その脳死を従来の伝統死と比べてみると、

 伝統死  脳死
・冷たい死→温かい死
・分かる死→分からない死
・見える死→見えない死
・あきらめられる死→あきらめられない死
・納得できる死→納得できない死

となる。なぜ、あきらめられないか、納得できないかというと、その死の判定は親子でも夫婦でも分からず、医師の判定を必要とするからだ。

 いま目の前に横たわる脳死と判定された、わが子、わが妻は話すことはできず、食べられず、飲むことも排泄もできず、植物状態なのだが...。それはその通りなのだが、目の前の現実は、脳の機能は停止していても、人工呼吸器の力を借りてはいても、呼吸ができ、心臓が動き、血色があり、切れば血を流し、汗を流し、涙を流し、時として動き...それが"死"だと言うのだから-。

 脳死を認める立場
 新しい死が認められるまでさまざまな議論が戦わされ、それは今でも続いているのだが、脳死を認める立場をかいつまんでみると、

・伝統や慣習といったあいまいなものではなく、科学的事実であり、回復は不可能だ
・蘇生した例はない
・奇跡は起こらない。神仏の加護も、霊力も念力も通じない
・自分の力で飲むことも排泄もできない
・心臓は動き体温はあっても、それは人工呼吸器によって生かされているだけだ。自分の力ではない
・感情ではなく、理性でとらえよ。医療は文明論や情緒ではない
 
 脳死は認められない立場
 脳死は医師でなければ判定できない。それも2人以上が立ち合うことになっている。
・医師の判定を素直に受け入れられるのか。誤診はないのか
・脳死はたしかに生ける屍だ。しかし認めることは反倫理的であり、危険な思想だ
・出産した例もある...死者が子を産むのか。その奇怪さ
・科学より文化の問題 だ。日本人の死生観の問題だ。脳死と言われて見舞いや香典を持っていくのか
・医療技術のために死とするのは人権侵害
・政治が死を決定してよいのか。国会はわずか4時間の審議だった、その拙速さと禍根(災いの起こるもと)
・密室医療の不信は拭い得ない
・医者が生死の鍵を握るなんて、思い上がりも甚だしい
・科学が踏みにじる死だ。哲学・思想・文化の問題を、医療が支配してよいのか
 
 (以上の認める立場と認められない立場は、脳死臨調〈臨時脳死及び臓器移植調査会〉で交わされた議論で、新聞紙上等で公表されたものをまとめた)
 
 このように脳死についての議論はさまざまであるが、詰まるところ脳死とは、人間が考えたり、手足を動かせるのは脳が命令しているからだ。その脳の神経細胞が壊れて脳機能が止まり、絶対に後へ戻れない状態をいう。具体的には、現場での判定方法は、人工呼吸器を10分間外して、自発呼吸の有無を確かめるのだという。

 人ごとではない話である。人生、晩年にあるとき、誰しもが通過せざるを得ない大きな関所であると思っていれば、間違いはなかろうと思う。
(2011年3月19日号掲載)
 
美しい晩年