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01 〜西之門で代々酒造業営む〜

38-kyoudoshi-0409.jpg[ふじい・いえもん](1890〜1974)
 藤井伊右衛門は、長野町西之門で古くから酒造業を営む吉野屋に生まれ、旧制長野中学から大阪高等工業学校を卒業。1926(大正15)年に家督を継ぎ、酒造業を営む。34(昭和9)年、第7代長野市長に推され2年9カ月務めました。

 42(昭和17)年の衆議院議員選挙に第1区から立候補して当選し、国政にも参画。戦時中は大政翼賛会長野県支部事務局長、県翼賛壮年団長なども務め、多額納税者として有名でした。

 戦後は(株)よしのや、雲山銘醸(株)各社長、長野キリン販売(株)会長などを務めたほか、県公安委員長、県社会福祉協議会長などの公職に就きました。

 なお、先代は第1期の長野市会議員から県会議員に当選、県酒造組合連合会長なども務めました。

 藤井家はその家伝によれば、初代藤井藤右衛門が善光寺大本願尼公上人にお供して京都より移り、1637(寛永14)年に善光寺領西之門の地で酒造業を創業しました。以後、当主は代々伊右衛門を襲名し、江戸時代から一貫して酒造を業とし、明治期に至ってみその醸造も始めました。

 藤井家の所蔵史料などによると、近世初頭の1679(延宝7)年、当時の善光寺町には酒造家が50軒あり、酒造高は計513石。少量酒造が中心で、酒造家1軒当たりの平均酒造高は10石余でした。

 1837(天保8)年、善光寺西之門の伊右衛門は、総石高72石の酒造を許可されているので、藤井家は大門町の喜平衛と並び善光寺町切っての酒造家でした。

 なお、藤井家には33(天保4)年の造り酒屋の「書留」が残されており、そこには正月の飾り物から始まり、酒造の行事を軸に暮れまでの1年間の営みが詳しく記録されています。

 その中に、藤井家では酒の保存とその味を良くするために、4月20日から24日までに一番火入れをし、5月から7月まで1カ月ごとに計4回の火入れを行ったことなど苦心の様が記されています。その努力の結果、藤井家からは「吉野川」「花盛」といった銘酒が造り出されました。

 翻って藤井家には、1873(明治6)年当時の「明治癸酉日記」こと「藤井伊右衛門日記」が残されています。これには藤井家の当主で学校世話方の伊右衛門が72年の「学制」頒布後、長野学校を創建していく過程がリアルに記されており、県教育史上第一級の史料となっています。

(2011年4月9日号掲載)

=写真=藤井伊右衛門の肖像(長野市蔵)