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01 夢は外交官 〜世界地図が人生の羅針盤に〜

01-koide-0423p.jpg 外交官になって世界を飛び回る。これが私の夢でした。旧制中学の地理の授業で、カラフルに色分けされた世界地図を見た時「こんなにたくさんの国があるんだ」とびっくり。インドの人ってどんな服を着て何を食べ、どんな家に住んでいるんだろう。イギリスは、ブラジルは...。子どもなりの興味が尽きず、「いつか外国に行きたい」と思うようになりました。

 ところが、時代は戦時色一色。学びたかった英語は敵国語だと禁止。それどころか授業もろくにできない。勤労奉仕として橋の建設現場や軍需工場など、あちこちに駆り出される日々に、カラフルな世界は遠のきました。

 一番吸収できる時期に勉強ができない悔しさ。80歳を過ぎた今も自分の知識不足を感じ、学びへの意欲が衰えないのは、あの悔しさがこびりついているからです。

 終戦には心底ほっとしました。徴兵検査で合格していたら特攻隊に志願していたかもしれない年代の者として、何よりも大切なのは平和。そのためには、未来ある子どもたちの教育が重要なんです。

 長野オリンピックの時、自分の国だけではなくて世界の国々を応援し、そしてその後もその国の子どもたちと恒常的に交流しようと「一校一国運動」を提唱したのも、以上のような私自身の痛恨の思いからです。 

 今は私の子ども時代と違い、行きたい国に行ける時代です。例えば言葉が通じないショックを受けることで、語学を学びたいという切実な思いが湧いてくるはず。そんなチャンスを与えてあげるべきなのです。

 私は商人の家の跡取りでしたから、外交官の夢はかないませんでした。しかし中学時代の世界地図は、私の羅針盤として「長野国際親善クラブ」の活動、一校一国運動を継続する上での指針になってくれています。

 長野から坂本龍馬のような人物が育ってくれれば...。そんな新たな夢を抱きながら、私の決して平たんとは言えない人生を率直に振り返ってみたいと思います。
(2011年4月23日号掲載)

小出博治(ひろじ)さんの主な歩み

1928:昭和3:長野市南石堂町に生まれる;
35:10:山王小学校入学;
41:16:後町小学校に転校;
42:17:長野市立中学校入学;
47:22:長野工業専門学校(現信州大学工学部)電気通信科入学;
49:24:東京外語大受験を希望し、同校に休学届提出;
50:25:復学;
51:26:実家の差し押さえで行商をしながら信大工学部卒業;
52:27:家業の小出商店を継ぐ
初めての海外旅行でタイに3カ月滞在;
54:29:睦子さんと結婚;
65:40:妹が「井筒まい泉」を始め、後に取締役相談役に就任;
68:43:長野国際親善クラブ発足。事務局長に就任;
72:47:相鉄観光(株)東京支社長;
73:48:長野国際親善クラブ副会長;
93:平成5:長野国際親善クラブ第2代会長に就任;
95:7:長野冬季五輪開催を機に、長野市内小中・養護学校が国際交流を進めるため「一校一国運動」提唱;
97:9:英国オリンピック委員会アタッシェを拝命。郵政大臣表彰;
98:10:長野国際親善クラブが「一校一国運動」の提唱と支援で信毎賞受賞;
99:11:外務大臣表彰団体賞;
2000:12:英国エリザベス女王から名誉大英勲章。叙勲;
05:17:北京市教育委員会より「五輪教育の一校一国運動による国際交流プロジェクトの専門家」としての招聘(しょうへい)を受け訪中;
08:20:北京五輪開催を前に北京市教委から再招聘を受け、05年に続き訪中
 
小出博治さん