戸隠神話と修験道は昔からいろいろと論じられてきた。宗教学者、郷土史家、各界の先生、地元の古老も論客だ。
最近の研究では、信州大学名誉教授・端戸信騎(はしどしんき=堀井謙一)さんの「戸隠権現鎮座考」(戸隠遊行塾・2008年刊)が出色だ。論考の主題は"戸隠の神さまは、如何にしてやって来られたか"で、専門の国文学古典を綿密に分析している。
その中で、戸隠縁起についてはなんと「浅薄、中途半端で、練りが不足、手抜きが目立つ」との見解だ。
どうしてそうなのか、考えてみた。地方の信仰文化の多くは、中央文化の反映でもある。修験道の大本(おおもと)は奈良の吉野山・金峰山と和歌山・三重県境の熊野三山だ。昨年は春に吉野を、秋に熊野を訪ねてみて、よく分かったことがある。

典型的な証拠を掲げてみよう。熊野権現の牛王符(ごおうふ)と戸隠神社がかつて配布していた牛王宝印符はよく似ている=写真。熊野の烏文様は東征神話の神武天皇を導いた八咫烏(やたがらす)だ。ちなみに八咫烏は足が3本の大鳥で、日本サッカーJリーグのシンボルマークになっている。
戸隠の文様は中心に九頭龍をあしらってある。周囲の8匹の動物の頭はカラスで熊野の影響だろう。中心の龍神を合計すると9匹になり、九頭龍を示唆している。
修験道は険しい山岳で厳しいサバイバルを体得するのが柱だ。ところが紀伊の山々は、信州と比べて低い。1500メートルを超えるのは数峰にすぎない。修験は霊山で荒行をして、神仏と一体化するのが目的だから、低い山では物足りない。修験者は全国のこれはという高山を目指した。
「わしは富士、立山、白山で5年も修行」「おれは出羽、戸隠、伊豆で10年も修行した」-。厳しい山ほど箔が付く。箔が付けば信者やパトロンが増える。修験者は各地で、紀伊の文化=吉野や熊野の信仰をPRした。かくして修験信仰は全国に広まっていった。
特に山容と自然が格別に厳しい戸隠は、別格の修験の地として認識されていったのだろう。だから縁起などで、いわれをゴテゴテ飾る必要はなかったのではないか。
(2009年1月31日号掲載)
写真
上=熊野権現の牛王符
下=戸隠神社の牛王宝印符
最近の研究では、信州大学名誉教授・端戸信騎(はしどしんき=堀井謙一)さんの「戸隠権現鎮座考」(戸隠遊行塾・2008年刊)が出色だ。論考の主題は"戸隠の神さまは、如何にしてやって来られたか"で、専門の国文学古典を綿密に分析している。
その中で、戸隠縁起についてはなんと「浅薄、中途半端で、練りが不足、手抜きが目立つ」との見解だ。
どうしてそうなのか、考えてみた。地方の信仰文化の多くは、中央文化の反映でもある。修験道の大本(おおもと)は奈良の吉野山・金峰山と和歌山・三重県境の熊野三山だ。昨年は春に吉野を、秋に熊野を訪ねてみて、よく分かったことがある。

典型的な証拠を掲げてみよう。熊野権現の牛王符(ごおうふ)と戸隠神社がかつて配布していた牛王宝印符はよく似ている=写真。熊野の烏文様は東征神話の神武天皇を導いた八咫烏(やたがらす)だ。ちなみに八咫烏は足が3本の大鳥で、日本サッカーJリーグのシンボルマークになっている。
戸隠の文様は中心に九頭龍をあしらってある。周囲の8匹の動物の頭はカラスで熊野の影響だろう。中心の龍神を合計すると9匹になり、九頭龍を示唆している。
修験道は険しい山岳で厳しいサバイバルを体得するのが柱だ。ところが紀伊の山々は、信州と比べて低い。1500メートルを超えるのは数峰にすぎない。修験は霊山で荒行をして、神仏と一体化するのが目的だから、低い山では物足りない。修験者は全国のこれはという高山を目指した。
「わしは富士、立山、白山で5年も修行」「おれは出羽、戸隠、伊豆で10年も修行した」-。厳しい山ほど箔が付く。箔が付けば信者やパトロンが増える。修験者は各地で、紀伊の文化=吉野や熊野の信仰をPRした。かくして修験信仰は全国に広まっていった。
特に山容と自然が格別に厳しい戸隠は、別格の修験の地として認識されていったのだろう。だから縁起などで、いわれをゴテゴテ飾る必要はなかったのではないか。
(2009年1月31日号掲載)
写真
上=熊野権現の牛王符
下=戸隠神社の牛王宝印符