津村信夫は神戸の3万3000平方メートルもある「バラ屋敷」と呼ばれた大邸宅に生まれた。母はバラ作りが趣味、父は大学教授から実業家になった傑物。兄は戦後、長く朝日新聞の映画評論で健筆を振るった津村秀夫。親戚(せき)、知人は名家ばかりだった。
一方のシンデレラ娘・小山昌子は長野市西長野に生まれたが、家庭は父母兄弟が離れ離れに近く、横浜で修業したパン・ケーキ職人の兄が家族を支えていた(この兄の後裔が現在、県町にある菓子舗・勢国堂。権堂町の森田ベーカリーの嘉代さん(84)は昌子の実妹)。

白馬にまたがった王子さまは、なぜ、旅館の「お運びさん」に一目ぼれしたのか。1930(昭和5)年、昌子17歳の写真=写真上=をご覧いただきたい。貴重な写真はよれよれだが、写っているのは花なら白いキキョウ。凛とした気品があふれている。信州の女性は美人である-特に長野市生まれの女性は高貴だ。京都や金沢、秋田だけが美人の産地ではないのだ。
時代が時代なら、昌子はファッション雑誌の表紙を飾るトップモデルになっただろう。テレビのアイドルにもなって、人気者になったに違いない。セブンティーンなのに、この色香! 津村がクラクラとなったのも、無理はない。
津村は信越線に9時間も揺られ、頻繁に長野詣でを繰り返した。「兄さん、昌子さんをください。お願いします」-。その後は3人で戸隠に遊んだ。中社の宮司・久山家では蕎麦を食べた。越水ケ原を手をつないで散歩した。神社でお神楽を楽しみ、2人の未来を祈った。
ところが結婚して数年、信夫をアジソン氏病という不治の病が襲う。若いころ、肋膜炎を病んだ影響か、肺炎を併発し急速に体力が衰えていく。2人には一女の初枝が生まれた。信夫の机によじ上り、思索を邪魔するかわいい盛りの初枝を残し、詩人は35歳であの世に旅立ってしまう。
「信夫さん。信スケ、シンスケー」。昌子は絶叫した。涙も枯れて一時は尼さんになろうと考えたが、激動の戦後を初枝を抱えて生き抜いた。

99(平成11)年の秋、私は鎌倉の自宅で昌子さんにお会いした。快活で頭脳明晰な「ナイス グランマ=すてきなおばあちゃん」だった(写真下=後方が初枝さん)。女の一生とは、すごいものだとつくづく思った。
(2009年4月18日号掲載)
一方のシンデレラ娘・小山昌子は長野市西長野に生まれたが、家庭は父母兄弟が離れ離れに近く、横浜で修業したパン・ケーキ職人の兄が家族を支えていた(この兄の後裔が現在、県町にある菓子舗・勢国堂。権堂町の森田ベーカリーの嘉代さん(84)は昌子の実妹)。

白馬にまたがった王子さまは、なぜ、旅館の「お運びさん」に一目ぼれしたのか。1930(昭和5)年、昌子17歳の写真=写真上=をご覧いただきたい。貴重な写真はよれよれだが、写っているのは花なら白いキキョウ。凛とした気品があふれている。信州の女性は美人である-特に長野市生まれの女性は高貴だ。京都や金沢、秋田だけが美人の産地ではないのだ。
時代が時代なら、昌子はファッション雑誌の表紙を飾るトップモデルになっただろう。テレビのアイドルにもなって、人気者になったに違いない。セブンティーンなのに、この色香! 津村がクラクラとなったのも、無理はない。
津村は信越線に9時間も揺られ、頻繁に長野詣でを繰り返した。「兄さん、昌子さんをください。お願いします」-。その後は3人で戸隠に遊んだ。中社の宮司・久山家では蕎麦を食べた。越水ケ原を手をつないで散歩した。神社でお神楽を楽しみ、2人の未来を祈った。
ところが結婚して数年、信夫をアジソン氏病という不治の病が襲う。若いころ、肋膜炎を病んだ影響か、肺炎を併発し急速に体力が衰えていく。2人には一女の初枝が生まれた。信夫の机によじ上り、思索を邪魔するかわいい盛りの初枝を残し、詩人は35歳であの世に旅立ってしまう。
「信夫さん。信スケ、シンスケー」。昌子は絶叫した。涙も枯れて一時は尼さんになろうと考えたが、激動の戦後を初枝を抱えて生き抜いた。

99(平成11)年の秋、私は鎌倉の自宅で昌子さんにお会いした。快活で頭脳明晰な「ナイス グランマ=すてきなおばあちゃん」だった(写真下=後方が初枝さん)。女の一生とは、すごいものだとつくづく思った。
(2009年4月18日号掲載)