
由緒を調べるため何度か参拝したある日、玉垣を見て目が点になった。右の門柱には「権堂深秀楼 青雲亭 富貴楼」。左の門柱には「鶴賀新地 中屋 三都一」とある。神社の玉垣は個人の名前が常識なのに、こりゃなんだ!
左右に続く20本余りの石柱の文字を連ねてみると-。権堂柳家、越前家、三河家、三島家三吉、同吾妻、同喜代柳、青湖楼...金井屋、島田屋、清松楼、大黒楼、二葉楼、新潟楼...などとある。
ピーンときた。富貴楼は権堂町で数年前まで営業していた料亭で、ブライダル施設ができるまでは市内子女の結婚式場だった。青雲亭
は西隣に並んでいた。深秀楼は秋葉神社西横で戦後も長く営業した著名料亭だ。
そのほか、「家」とか「楼」は料亭、芸者置屋、遊郭の名前。「鶴賀新地」とは、明治初期に田んぼの中に新設された遊郭の別称だ。中でも大黒楼は木造5階建て、客と遊女、三味線と歌声がさんざめく不夜城だった。

つてを頼って、長野市街の神社を取り仕切っている神主のドン・齋藤安彦宮司(湯福神社)のご教示を得た。
「神社宮司は、昼間は祓えたまえ、清めたまえ"と崇高な職種です。しかしプライベートタイムになると、神主も俗人。時には花街にも遊びます。そのうち常連にもなりましょう。そこで、なじみの店で"今度、我が社も玉垣を建設する。ついては長年のお付き合いで、ひとつご奉仕を願いたい"なんて申し出たのではないですか」
「へえー、なじみの店や芸者さんにも寄付を募ったんですか!」
「ごく常識的な推測ですが...たぶん。顧客ですから、料亭や芸妓も人情で応えて一肌脱いだんでしょう。それに彼女たちは結構小金をためていましたからね」

(2009年5月30日号掲載)