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070 守田迺神社(下) 〜善光寺から移された本殿

070-rekishi01.jpg 守田迺神社は本殿と拝殿の間に一棟があって、「祝詞殿」という。3棟が連なる珍しい社殿だ。由緒を探索すると、ちょっと大げさだが仏教と神道と明治維新の政策がくっきりと見えてくる。

 明治政府は維新直後に「神仏分離=廃仏毀釈」を強行した。徳川体制を支えた仏教否定の政策で、困ったのは善光寺だ。本堂裏には、仏さまが越年行事をする神社「歳神堂」があった。「神さんをどっかへ離さねば」ということで、祭神は近くの城山へ移し、「健御名方命彦神別(たけみなかたとみのみことひこがみわけ)神社」にした。

 「社殿はどうする」「近くの神社に引き取ってもらおう」というわけで、守田迺神社に大層な本殿(市指定文化財)がやってきた。

 おまけに明治政府は、近代国家になるために1872(明治5)年「娼妓解放令」を出した。だが、おいそれと遊女は消えたりなくならない。仕方ないので「遊郭、遊女屋は市街から遠い場所に移せ」と県庁を通じて命じた。そのため78年、一面水田や桑畑の中に突然「新地」が造成され、遊郭街ができた。守田迺神社から歩いて10分ほどの場所だった。

 「遊女の境遇は苦界といいますが、意外に自由があって、休みにはレジャーとして善光寺など寺社の参拝や遊山もできました。彼女らの願いは二つ。悪い病気にかからないこと。よい旦那が付いて身請けしてくれることでした」

 -浅草・吉原では、御歯黒溝(おはぐろどぶ)を巡らして逃亡を防ぎ、外出には厳しい監視がついていましたが?

 070-rekishi02.jpg「それは芝居や小説のイメージですよ。そんな厳しいことは長続きしないものです。苦界でも常識的な習わし、人間味が意外にあったんです」

 大学では神道のほか民俗学を専攻したという湯福神社の齋藤安彦宮司。聖と俗に目配りしたバランスの取れた見方だ。

 「新地」には10年ほど前まで豪壮な木造建物があったが、今はもうない。唯一、東鶴賀公民館の敷地内に「鶴賀新地跡」の市制百周年記念碑が立っているだけだ。守田迺神社は、遊女たちの喜怒哀楽を秘めた現代史の史跡でもある。

(2009年6月6日号掲載)



3棟の社殿(左から本殿、祝詞殿、拝殿)

新地跡の記念碑

 
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