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114 康楽寺 〜善光寺の参道で墓地移転〜

114-rekishi-0423p1.jpg 善光寺周辺では5指、いや3指に入る大寺だ。白鳥山康楽寺(はくちょうざんこうらくじ)は、門前が東町の問屋街。背後は田町の鐘鋳川で、石垣の高台に立つ。

 大寺だから、創建の由緒は数多い。クイズを一つ。「境内に墓地がないのはなぜか?」「長野高校の南側に『康楽寺』と書かれた看板と広大な墓地がある」と答える人はなかなかの訳知りだ。

 どうして本堂から遠くに墓地があるのか。長野市内に信越線の停車場(長野駅)ができたのが原因だ。「乗客が汽車を降りたら、真っすぐに善光寺へ導こう」「そうだ、従来の参道を引き直そう」。駅から本堂までの直線上に当たった康楽寺の当時の住職は「善光寺様のためなら、拙寺が身を引くのが一番」と、まず境内墓地の移転を開始した。行政や関係者が確保した墓地が現在地という。墓地の移転は簡単ではない。以来、4代にわたる住職の大事業となった。

114-rekishi-0423m.jpg ところが、公共事業は当てにならないことがしばしば。駅からの参道の引き直しも二転三転の挙句、沙汰やみとなってしまった。駅頭から参道へ道をつなぎ、「善光寺へはL字にお曲がりください」と、駅頭でガイドすることになった。

 「平安時代の末、越後遠流(おんる)を許された親鸞上人が師・法然の死去を聞き、追善法要を執り行った草庵がこの康楽寺です」と第26代の海野正信(うんのしょうしん)住職。海野といえば、東信の豪族・滋野一族だ。禰津、望月、海野の3氏が有名で木曽義仲の挙兵を支えた。

 その一人が親鸞の弟子になった西仏房(さいぶつぼう)というお方。『小県郡史』によると、1157(保元2)年、ルーツの海野庄に寺を建立、流れて篠ノ井の塩崎に移転。「塩崎の康楽寺は本家筋で、こちらは善光寺街の出張所の役でもありました」

 「小生、実は博多の寺の総領。縁あってこちら信州に...。実家は弟に任せまして」と、西郷どんそっくりの正信住職。お茶と菓子を給仕していただいた坊守りさん(夫人)の横顔を拝見して納得した。

114-rekishi-0423p2.jpg 長い歴史を誇る寺は例外なく、数々の災厄に遭っている。宝暦の火災、弘化の地震、明治の大火...。康楽寺もそのたびに堂宇を失い、現本堂が再建されたのは1886(明治19)年のことだ。昭和の修理の際、本堂の鬼瓦が降ろされ、境内に記念物として残されている。優に2メートルはあろうという大きさに驚く=写真下。

=写真=大寺の風格がある境内

 
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