
大寺だから、創建の由緒は数多い。クイズを一つ。「境内に墓地がないのはなぜか?」「長野高校の南側に『康楽寺』と書かれた看板と広大な墓地がある」と答える人はなかなかの訳知りだ。
どうして本堂から遠くに墓地があるのか。長野市内に信越線の停車場(長野駅)ができたのが原因だ。「乗客が汽車を降りたら、真っすぐに善光寺へ導こう」「そうだ、従来の参道を引き直そう」。駅から本堂までの直線上に当たった康楽寺の当時の住職は「善光寺様のためなら、拙寺が身を引くのが一番」と、まず境内墓地の移転を開始した。行政や関係者が確保した墓地が現在地という。墓地の移転は簡単ではない。以来、4代にわたる住職の大事業となった。

「平安時代の末、越後遠流(おんる)を許された親鸞上人が師・法然の死去を聞き、追善法要を執り行った草庵がこの康楽寺です」と第26代の海野正信(うんのしょうしん)住職。海野といえば、東信の豪族・滋野一族だ。禰津、望月、海野の3氏が有名で木曽義仲の挙兵を支えた。
その一人が親鸞の弟子になった西仏房(さいぶつぼう)というお方。『小県郡史』によると、1157(保元2)年、ルーツの海野庄に寺を建立、流れて篠ノ井の塩崎に移転。「塩崎の康楽寺は本家筋で、こちらは善光寺街の出張所の役でもありました」
「小生、実は博多の寺の総領。縁あってこちら信州に...。実家は弟に任せまして」と、西郷どんそっくりの正信住職。お茶と菓子を給仕していただいた坊守りさん(夫人)の横顔を拝見して納得した。

=写真=大寺の風格がある境内