
上平地区にある自在神社神楽殿の前に若干の駐車スペースがあり、そこから登路が始まる。本殿まで600段の石段を上がると、巨岩を背景に本殿が建立されている。
ここから松林の中の山道となるが、神楽殿から本郭まで約1時間。本郭は約2メートルの高い土塁で囲まれ、中央には天水溜と思われる遺構がある。
戦国期の城主は村上氏から分かれた出浦氏で、村上氏旗下18将の重臣である。このころの村上氏家臣団に出浦清種、清正の名前が見られるが、1553(天文22)年の葛尾(かつらお)城落城のときに村上義清と共に上杉氏を頼ってこの地を去った。
その後、信濃の覇権をめぐって上杉と武田の対立が続いたが、葛尾城落城から30年を経た1582(天正10)年、信濃帰還が果たせなかった義清に代わって義清の子・国清が上杉氏から川中島地方の統治を任され海津城将となった。
この時、出浦氏も帰還したと推察されるが、江戸時代に入って坂城代官が、村上氏旧臣の出浦氏と諮って坂城町横町の出浦氏墓所に義清公の墓所を建立し現在に至っている。
平安時代に源顕清が村上郷に配流されたのが村上氏の発祥といわれている。室町時代の初期に千曲川右岸の葛尾城に本拠を移し、東北信の支配を強めていったが、その後、出浦氏が村上郷を治めたものと思われる。
城跡は「烽火(のろし)台跡」として坂城町の史跡に指定されているが、出浦氏が越後に去ったのち武田氏が烽火台として使用したものであろう。現在の山頂付近は松林に覆われ視界を遮っているが、かつては千曲川を隔てて対峙(たいじ)する葛尾城や北方の荒砥城、南方の狐落城、和合城など村上城塞群との通信には格好の場所であったと思われる。
(2011年4月9日号掲載)
=写真=均整の取れた自在山の山頂に城跡が