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23 脳死−新しい死(下)

 「脳死は人の死」と言えるか-については、死と認める立場と、死とは認められない立場とが医学・法医学・哲学・人類学・作家・宗教家・国会議員などを巻き込んで、激論が交わされてきた。最終的には国会で議決されて、形(法的)の上では一応の終息をみた。

 だが、長い人類史の中で社会通念として、暗黙のうちに了解されてきた伝統死ともいうべき「分かる死、見える死」からみると程遠いものであり、「分からない死、見えない死」であることは言うまでもない。

 衆院本会議で「脳死は人の死」と位置付け、本人が生前に拒否表明しなければ家族の同意で臓器提供を可能にする案を賛成多数で可決したのは、2009年6月18日であった。投票結果は賛成263票、反対167票。怒号が飛び交い、拙速さと数の論理で押し切り、生と死の哲学をないがしろにしたものという批判の中でのことであった。いずれにしても2009・6・18は日本史上記念すべき日となった。

 脳死-是か非か
 さて、脳死問題は国会で一応の決着をつけたからといって、誰しもが納得し、それに従っているわけではない。百家争鳴のまま、それは今も続いていると言っていい。
 脳死問題の究極の争点は"臓器提供の承諾権"であるという指摘もあるが、心臓や腎臓・肝臓などの臓器移植のこととなると、とてもこの欄で語り切れるものではない。
 ここでは脳死の是非について、どんな声があるのか。識者、一般を問わず紹介して参考に供したい。

 ◎「脳死は人の死」と認める立場
○機器によって生かされている人生なんて真っ平。脳死結構。
○脳死問題は生命維持装置の進歩があっての話だ。認めないわけにはいくまい。
○脳死に奇跡は起きないという。万に一つも蘇生はないという。新しい死を認めざるを得ない。
○心臓は代替できるが脳はできない。脳死を認める。
○医療は哲学や文明論ではない。科学的事実としての死が脳死だ。
 ◎「脳死は人の死」と認められない立場
○人をモノとして見ているようで嫌だ。人体が商品だという発想を広めかねない。
○脳死は臓器移植のためにつくられた便宜的な死だ。納得できる死ではない。
○呼吸をしている。体温がある。汗も出る。出産も可能だという。この事実が死か。
○医療技術のために死とするのは、人権侵害ではないか。
○脳死を死と決めたいのは、生きている臓器を必要とするからだ。
○人の死は医学が決めるものではなく、社会が決めるものだ。
○人の死を科学に委ねてよいのか。
○法律で一律に脳死を人の死とすれば、治療を打ち切る流れが加速するのは目に見えている。恐ろしい。
○臓器移植のために募金してまで、生きる価値が自分にあるのだろうか。
○安らかな死こそが大前提だ。脳死と臓器移植とは別個の概念であるべきだ。

 脳死というと臓器移植とセットで考え過ぎる。移植以前の脳死そのものについての論議が薄弱だ、という声が多い。また、脳死をどう思うか、と問われても"分からない"という答えが非常に多い。無理からぬことだ。それぞれは専門家の立場ではない。降って湧いたような話に、軽々しい判断を下せるわけはないのだ。
 揺れ動いているのはそのまま、この問題の難しさを物語るものだ。時が解決するというものでもない。

(2011年4月9日号掲載)
 
美しい晩年