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25 どんな難問も分かってしまえば"当たり前"に

 算数の問題が分からなくて困っている子どもに「どうしてこんな簡単なことが分からないの?」と口にしたことはありませんか? このせりふは、知性が起こす一つの錯覚に基づくものです。

卵を立てたコロンブス
 自分自身、何らかの質問を抱き、その質問への答えを見つけた後、「どうして、こんな簡単なことが分からなかったんだろう」と、理解するまでの苦労がばかばかしく思えることがよくあるでしょう。それは、答えを見つけるために必要な「考える」という行為を引っ張っていた知性の緊張のゴムが、答えに達した瞬間に緩むことによって起こる現象です。

 アメリカ大陸を発見したコロンブスの有名なエピソードがあります。コロンブスが大陸発見の旅から帰還した後、スペインの王宮で祝宴が開かれました。その席で一人の参加者が「海を西へ進めば、誰だって大陸にぶつかる。(コロンブスのやったことなど)大したことではない」とけちをつけたのです。それを聞いたコロンブスは、ごちそうの中にあったゆで卵を手に取って、「では、どなたか、この卵をテーブルに立ててみてください」と言いました。名乗りをあげる者は誰もいません。そこで、コロンブスは、おもむろに、卵の先をテーブルにぶつけて殻をへこませ、へこんだ部分を底にして卵を立てたのでした。それを見た人々が「なーんだ、そんなことなら誰でもできる」と言うと、コロンブスは「どんな難しい事柄でも、いったん分かった後では当たり前」と答えました。

 この例えは、我々の頭に生じる一つ一つの理解についても同じように言うことができます。つまり、ひらめきがとらえる内容は、ひらめきに到達するまではどんなに難問であっても、いったん理解した後はすでに「分かっていることの一部」に変わります。したがって「当たり前」に感じられるのです。

 ひらめきの「前」と「後」の間には、大西洋と言わずとも、大きな川が横たわっています。しかし、いったん「ひらめき」が生じて、その川を無事に越えると、大変な思いをして越えたはずの川は、一足で渡れるような小川であったかのごとき錯覚を生じるのです。

 一つの物事をすでに理解している人と、理解していない人との知性の間には、さまざまな、小さくはない川が存在します。川をすでに渡った大人が、今、その川を渡ろうと苦労している子どもに向かって、「そんな小川、一足でまたげるじゃない」と責めることは、「のど元過ぎて熱さを忘れた」錯覚に基づくものです。

 問題にてこずっている子どもに向かって「こんな当たり前なことが、どうして分からないの?」と言いたくなったら、どうか、コロンブスの卵を思い出してください。

(2010年3月27日号掲載)
 
たてなおしの教育