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27 意思でコントロールできない部分を認め「待つ」

 前回の続きです。ひらめきがなかなか起こらない子どもに向かって「どうして分からないの!」といった言葉を投げつけてしまう時、その裏には「ひらめきは本人が、自分の意思と努力で起こすことができるはず」という誤解が潜んでいます。

努力だけではひらめかない
 人間の行動には、「意思」でコントロールできる部分とできない部分があります。

 例えば、逆上がり。鉄棒の所へ行き、逆上がりを何度も試みる-という行為は、本人の意思でコントロールできる部分です。しかし、実際に、逆上がりに必要な体の動きのしくみについてのひらめき「あっ、こうやればできるんだ!」が生じ、そのひらめきに沿って体を動かして逆上がりができる(体得する)ようになるか否かは、意思ではどうにもならない(したがって、「待つ」ほかはない)要素を含んでいます。

 意思でコントロールできる部分は「努力」が利く部分であり、努力不足については、本人の責任を問うことができます。しかし、意思でコントロールできない部分について、責任を問うことはできません。あれこれと努力をしたにもかかわらず、逆上がりができない子どもに「努力が足りないんだよ」「やればできるはずなのに...」と言ったりするのは、「待たなければならない」部分の存在に気付いていないからではないでしょうか。

 ひらめきが起こるようにするために、さまざまな助けを求め、探すこと(勉強の時間を確保する、ヒントとなる参考書を読む、ヒントを与えるのが上手な人に助けを願うなど)は意思でコントロール可能な部分ですから、それを怠っているときに、本人の責任を問うことができます。

 しかし、「ひらめき」そのものが、本人の意思によって起こせるものではない限り、努力をしてもひらめかない子どもに対して、親や教師がすべきなのは、ひらめきが起こらないことへの責任の追及や叱責ではなく、何よりもまず、意思でコントロールし得ない部分の存在を認め、コントロールし得る部分と区別することではないでしょうか。

 問題を前にして「分からない...」と立ちすくんでいる子どもにとって必要な助けとは、次の3点です。(1)ひらめきの発生の過程で、どの部分までが努力で克服できる部分であり、どの部分が忍耐して「待つ」部分であるのかを見極める。次に(2)努力で克服できる部分の割合をじわじわと増やしていく。そして(3)ひらめきへと知性がジャンプするのを「待つ」ように励ます。

 子どもが自分なりの努力をした後は、どうか「分かるときが、そのうちきっと来るからね」と声を掛けてあげてください。

(2010年5月29日号掲載)
 
たてなおしの教育