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28 奪うどころか考える力を育てる"教える"

 子どもから、分からない問題についての助けを求められ説明をしている途中で、ある種の不安にかられて「もっと、自分で考えなきゃ駄目!」と、突き放してしまうことがありませんか? 「説明し過ぎると、答えを出そうとする努力や、ひらめく力を子どもから奪ってしまうのではないか?」という不安です。この不安は、ひらめきの性質に関する誤解に基づいています。

教えない方がよい!?
 「教える」とは、ひらめきを起こさせるための援助の総称ですが、教えることは、ひらめきの発生を助けることはあっても、「発生させる」ことはできません。しかし、「教えることで、本人が努力することなしに、ひらめきを発生させてしまう」と誤解してしまうと、「教える」=「子ども自身から、ひらめきを起こす努力と、ひらめきの機会を奪う」となり、「子どもが自分で考えることができるようにするためには、なるべく教えない方がよい」という、極端な結論が導き出されることになります。

 実際には、いくら助けを与えたとしても、ひらめかないときはひらめかないのです。極端に言えば、「答え」を教えたとしても、「なぜ、そのような答えになるのか」を理解しなければ、答えは意味を持ちません。答えを丸暗記することで、テストの点は取れるかもしれませんが、理解の伴わない暗記事項は、遅かれ早かれ記憶から消えていきます。

 ひらめきは、子ども自身の努力の上に立つ本人の知性の働きの結果です。そのひらめきが起こるまでに、どれほど多くの助けをもらったとしたとしても-です。そして、有効な助けとは、子ども自身が、「他者から与えられる助けを、自分の努力と融合させてひらめきに近づける力」を育てることです。つまり、教えることは、それが上手になされる限り、子ども自身の考える力を奪うどころか、育てているのです。

 自転車に乗れるようになりたいという子どもに、「自分の力で乗れるようにしなさい」と言って、まったく助けの手を出さないでしょうか? ほとんどの方は、ステップ・バイ・ステップで乗り方を示し、自転車を後ろで支えるなど、さまざまな助けをするでしょう。しかし、ある日、突然、手を離しても自転車は転ばずに走り出します。まるで、「お父さんの助けなんか必要なかったよ!」とでも言うように。しかし、そう言われても、お父さんは苦笑いしながらもつぶやきます。「まあ、そう言わせておこう。休日返上で、いっぱい手伝ってやったけど、その助けを生かして乗れるようになったのは、確かに、あいつ本人の手柄だからな...」

 どうぞ、心おきなく、教えてあげてください。

(2010年6月26日号掲載)
 
たてなおしの教育