
祖父が線香花火の製造と販売で財を成し、父がそれを生かして事業を発展させたわけです。若里の工場で祖父が作る線香花火は、火花が長持ちする抜群の品質。他の誰がまねてもかなわず、飛ぶような売れ行きだったようです。
現在、仕事を引退して「長野国際親善クラブ」の会長という使命に物心共に注ぎ込めるのは、ご先祖さまのおかげと頭を下げています。しかし事業家の長男だったことで、大きな波風に巻き込まれたことも何度かありました。
働き者だった父
父は大変な働き者で、いつも夜中まで事務所でごそごそ仕事をしていました。2階にいた私はその音で眠れず、よく階下に降りて行っては父の傍らで遊んだり、せっけんや化粧品、アクセサリー、雑貨など多彩な商品を見ていました。このため小さい時から夜更かし朝寝坊の習慣が身に付き、今日に至っています。
覚えているのは、父が取引先に送る文書が候文(そうろうぶん)だったことです。見事な筆字でさらさらとつづっていました。私が受けた教育では候文はなくなっていましたし、父もいつからか普通の文になったことで、小さい時に見た候文が余計に印象に残っています。ある種、時代の変わり目を生きてきたのかな、という気がします。
母はハイカラで、とてもおしゃれな人でした。商売が大好き。いつもきれいに薄化粧をし、最新流行のファッションで接客していました。子ども心にも「若いなあ」と感じたものです。化粧品とアクセサリーの小売りはもっぱら母が担当し、仕入れも自分でしていました。父はミツワ石鹸(せっけん)、花王石鹸など大手メーカーの代理店として大規模卸が専門。同じ看板の下で分業していたようなものですね。
たくさんの商品の中で、たばこだけは子どもでも値段を覚えられます。たばこのお客さんが来ると一人前の気分で店に出ていたものです。
モダンだった母
母は長野生まれですが、明治の起業家として活躍した雨宮敬次郎の東京麹町の家で育ち、麹町の女学校出身。軽井沢には別荘があります。東京と長野を行き来しながら育っていますから、仕入れを兼ねてよく東京に行っていました。大変にモダンな人でした。
こんな家の長男としてかわいがられ過ぎたせいだと思うのですが、私は体が弱く1歳で疫痢にかかり、医者からは見放されました。バナナのせいだということでした。輸入品の検疫が今ほど厳重ではなかったからでしょうね。それにしても1歳児に、当時まだ貴重だったバナナを与えるような生活だったわけです。
大事な長男を死なせてなるものかと、父母親族総出で手を尽くし奇跡的に回復したそうです。この一件は何度も父母から聞かされました。生き延びたおかげでますます大切にされ、例えばタイがあれば「博治に」と一番いい所を真っ先に食べさせてもらい、弟や妹は尻尾。万事このような特別待遇ですから「お兄ちゃんばかりなぜ」とよく言われたものです。
(2011年4月30日号掲載)
=写真=後ろが父母。前の両端が祖父母。祖母の隣が私