
そんなですから成績も中ぐらいで目立つようなところもなく、奥手というか、甘えん坊のお坊ちゃんという感じだったのだと思います。家族からすれば、すでに死にかけた長男。「生きてさえいればいい」という気持ちで甘やかしていたのでしょう。
私自身、小学校のころの記憶はほとんどありません。ただ、日中戦争から軍国主義の時代へと向かう時代。いたずらか何かの拍子に「おまわりさんが来るよ」と言われるのが何よりも怖かったことは覚えています。
山王小から後町小へ
山王小学校を卒業後、後町小学校に転校しました。病弱で成績も振るわないとはいえ、小学校卒業だけで家業を継ぐという考えは誰にもなく、中学進学は暗黙の了解でした。そのための体力と学力を養うため、今でいう予備校のような準備期間として、後町小で学んだわけです。
1年間受験勉強し、旧制長野市立中学に合格しました。もっと勉強して県立長野中学(現長野高校)を狙うほどの根性も周囲の期待もなく、しかし経済的には恵まれていたことで市立中学に進学することができたのですが、この学校は戦時下という時代に翻弄(ほんろう)され数奇な運命をたどることになります。
進学率が高まり、長野中学の希望者が増え過ぎたこともあって長野市が設立を決め、市民の期待の高さを物語るように、建設に際しては市民の寄付が集まったと聞いています。それなのに、たった数年で長野中学に統合されてしまったのです。よって私も入学は市立長野なのに、県立の長野高校の卒業名簿に名前が載っています。
私はこの市立中学の第3期生として入学しました。太平洋戦争開戦の翌昭和17年度です。今の南部小学校の場所の校舎はまだ建築途中で講堂がなく、雨の日の朝礼や儀式は廊下で行いました。ヒバリが飛んでいたのを覚えている友人もいます。
2年になるころ校舎は完成。ところが勤労動員で勉強どころではありません。木曽の山中のダム建設現場に送られたり軍需工場に送られたりと、せっかく入学した中学で勉強できなかった悔しさは今もぬぐえません。
燃えた幻の母校
しかも、やっと戦争が終わって学校に戻ることができ、これから勉強という時に校舎が燃えてしまったのです。放火の疑いもささやかれましたが、確かな原因は追及されないままでした。戦後のすさんだ空気が背景にあったことは間違いないと思います。
私の母校はまさに幻の学校となり、存在したことさえ知らない長野市民も多いと思います。そこで、卒業から50年後になって私たち3期生が回想録を作りました。有志が思い出をつづっている中に「青春を返せ ふるさとを返せ」というタイトルがあります。私の気持ちも代弁してくれているように感じました。喜寿に近い年齢になってさえ、このように叫びたい心情は痛いほど分かります。
奥手だった私も、中学になるとだんだん体力もつき、思考力も発達してきたようで意志も生まれ、その後の私の生き方に影響を与える出来事をいくつも覚えています。
(2011年5月14日号掲載)
=写真=小学校時代のひとこま