
毎朝30分も待ってくれたことについて、大人になってから「よく辛抱してくれたな」と言うと、実は迎えが目的ではなく、待ち時間に母がおいしいお菓子を食べさせてくれるのが楽しみだったということでした。
大事なネットワーク
戦時中は商売をしていたおかげで、商品と食べ物との物々交換ができ、さほどひもじい思いをしなかったことは恵まれていたと思います。また祖父母の家に行くと「成長期だからいっぱい食べな、遠慮するな」と、おなかいっぱい食べさせてもらえました。
その後の戦時下で家業の小出商店は閉鎖。父はゼロ戦の部品を作る軍需工場を始め、そのせいかどうか兵役にはついていませんし、当時非常に珍しい日産のダットサンまでありました。多分、商売を通じてのいろいろなつてがあったのでしょう。ネットワークの重要さを、私も無意識のうちに学んでいたように思います。
2年からは勤労動員でした。やっと戦争が終わって勉強できると期待したら、火事で校舎が焼けるというさんざんな中学時代ではありましたが、その後の私の人生を決定付ける出合いがありました。それは世界地図との出合いです。
入学間もないころの地理の授業でした。先生は満州を指して「ここも赤くなった」と、つまり拡大する大日本帝国の説明をしたのだと思います。しかし私の興味は先生の示す先よりも、西の方に広がっているカラフルに色分けされた未知の世界に飛んでいました。軍国主義教育の下で世界の多様さを教えてもらえるはずもなく、そんな地図を見たのも初めて。日本以外にたくさんの国がある、ということが衝撃でした。
黄色に塗られたインド。人々はどんな服を着て、どんな家に住み、どんなものを食べているのか。イギリス人は、フランス人は...。私はその授業以来「知らない国々の人々の暮らしを自分の目で見たい」と考え続けるようになります。
私が今の時代に中学生であったら、何とか外国に行く方法を探すに違いありませんし、そう難しいことではないでしょう。外国に行く仕事もたくさんあります。感受性豊かな時期に異文化に放り込まれたら、例えば言葉が通じないことにショックを受けて英語を学ぶ意欲が湧くなど、机上の勉強では得られない多くを学べるはずです。
自分の夢を次世代に
国際親善クラブを発足させ、後に子どもたちを外国に送る活動を含む「一校一国運動」を提唱したのは、戦争のおかげで自分がかなえられなかった夢を次世代に託したいからです。世界的な視野を持つ人材を育てなければ日本は衰退してしまいます。外の世界を知ることで自国のことも分かるのです。
私の世代の青春は、外国旅行などとは懸け離れていました。英語は敵国語で禁止。優秀な学生が特攻隊に志願して貴重な命を落とす。私たちも勤労動員される日々となりました。
二度と起こしてならないのは戦争です。
(2011年5月21日号掲載)
=写真=市立長野中学での授業風景