
「飯山城の正門を移築したものです」。誇らしげに解説するのは第23代住職の淺川信隆(しんりゅう)さん。檀家数百軒の禅寺であっても、やすやすと手に入る代物ではない。
東大寺なら仁王さんが立つ南大門に匹敵する。面構えは人品を表すが、門構えは城や寺社の格を示す表徴だ。城址修復を図る飯山市が「不要部材の一片でも欲しい」と要請したのも無理はない。飯山城の遺構は石垣ぐらいしかないからだ。
「飯山領だった田子地籍の檀家で酒造家の池田屋さんが寄進されたものです。お殿様も相当、商人から借金をしていたのでしょう」と淺川住職。松代藩同様、飯山も財政難にあえいだ。旱魃、洪水、飢饉に加え、幕末のどさくさが追い打ちをかけた。
飯山城の構築物は1872(明治5)年に払い下げられたが、総額80円だったとか。貸し金のかたとしては間尺に合わない。池田家では「小さな薬医門は我が家で、巨大な大手門はお寺さんへ」となったようだ。
飯山城は68年、官軍と幕府先鋭軍との戦場になった。「正門には生々しい弾痕が残る」と『飯山市誌』は記す。「その弾痕は見当たらない。槍跡はありますが」と淺川住職は太い柱を指差す。

大手門はなんと2層だった。移築後に放火で2階部分を焼失、生々しい梁などの焼け跡を残し、現在修復整備している。今年10月には、総本山・永平寺から高僧を招き、修復完成のお披露目の行事を予定している。
=写真=修復整備が進む山門