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115 信叟寺 〜移築された飯山城の正門〜

115-rekishi-0514p.jpg 長野市東北部の金箱地籍、古里小学校と東北中学校の間のリンゴ畑にある曹洞宗の大寺・信叟寺(しんそうじ)には、でっかいお宝がある。間口6間(約11メートル)もある豪壮な山門だ。

 「飯山城の正門を移築したものです」。誇らしげに解説するのは第23代住職の淺川信隆(しんりゅう)さん。檀家数百軒の禅寺であっても、やすやすと手に入る代物ではない。

 東大寺なら仁王さんが立つ南大門に匹敵する。面構えは人品を表すが、門構えは城や寺社の格を示す表徴だ。城址修復を図る飯山市が「不要部材の一片でも欲しい」と要請したのも無理はない。飯山城の遺構は石垣ぐらいしかないからだ。

 「飯山領だった田子地籍の檀家で酒造家の池田屋さんが寄進されたものです。お殿様も相当、商人から借金をしていたのでしょう」と淺川住職。松代藩同様、飯山も財政難にあえいだ。旱魃、洪水、飢饉に加え、幕末のどさくさが追い打ちをかけた。

 飯山城の構築物は1872(明治5)年に払い下げられたが、総額80円だったとか。貸し金のかたとしては間尺に合わない。池田家では「小さな薬医門は我が家で、巨大な大手門はお寺さんへ」となったようだ。

 飯山城は68年、官軍と幕府先鋭軍との戦場になった。「正門には生々しい弾痕が残る」と『飯山市誌』は記す。「その弾痕は見当たらない。槍跡はありますが」と淺川住職は太い柱を指差す。

115-rekishi-0514m.jpg 江戸時代中期から幕末まで、飯山の殿様は本多氏だった。徳川家康の側近として有名な本多正信と同じく、ルーツは三河武士団。だが、維新の趨勢を見誤った。本多氏は徳川譜代の自負から、「官軍と幕府、どっちに付くか...」江戸に滞在して逡巡していた。そうこうしているうちに幕府軍が越後から進入、城下を占拠して官軍との飯山戦争になった。

 大手門はなんと2層だった。移築後に放火で2階部分を焼失、生々しい梁などの焼け跡を残し、現在修復整備している。今年10月には、総本山・永平寺から高僧を招き、修復完成のお披露目の行事を予定している。

=写真=修復整備が進む山門
 
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