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24 植物状態からの蘇生

 敬愛する池田寿一先生ご夫妻の最期を紹介させていただく。お手本のような人生がそこにあるからだ。親族の手記などを拝借して読みながら、あらためてこういう生涯もあったのかと感に堪えないのである。

 池田先生のお住まいは飯田市下久堅(しもひさかた)上虎岩でそこから上久堅に出て、小川路峠を越えて遠山郷に向かう秋葉街道の道筋にある。

 美代子起きなさい!
 池田先生は私にとっては精神的支柱とでもいうべき方だった。道元研究の先達として、その学殖の深さといい、謙虚な人柄といい、誰からも大きな存在として仰ぎ見られてきた。見事な白髪をなびかせて座に就かれると、おのずから張り詰めた清澄な緊張感が場内に漂うのだった。

 元気だった美代子夫人がくも膜下出血で突然倒れ、「9時間に及ぶ大手術(脳外科)を受けたが、手術は成功したというのに意識が戻らず植物状態になり果てて3カ月...」主治医の診断は「命の保証はします。しかし意識を呼び戻す手だてはありません」ということだった。

 「疲れ切った私たちの心に安楽死という言葉が悪魔のように忍び寄ったりもした。だが父(寿一)だけはどんな雑音にも耳を貸さず、くる日もくる日も母を揺さぶり、その名を呼び続けた。"美代子、起きなさい! 朝だよ"-それはいつもの朝と同じだった」

 3カ月が経ったある朝「いつものように呼んだ"お母さん"の声に、母がコクンとうなずいたのだ。仰天した。...病室は沸き上がった。"長いこと眠っていましたねぇ!"主治医の冗談に皆が笑い、その真ん中で何と母までが笑っている...何としても父の呼ぶ声で母を起こさねば..."美代子、起きなさい! 朝だよ"凝視する父。母は細く細く目を開け、声のする方にゆっくり顔を動かした。母の視線の行き着く所に、父がまるで少年のようにはにかんで、いまにも泣き出しそうな笑顔で立っていた。耳を近づけた父に母が最初に言った言葉は"お世話をかけてしまって..."だった」そうだ。

 美代子夫人はそれから特別養護老人ホームで厳しいリハビリに耐え、我が家へ帰った。そして短歌の制作にいそしみ、近所付き合いはむろん農協主催の健康大会で体験談を発表するまでになった。亡くなられたのは意識を回復されてから、約10年後の81歳の時だったという。

 長男夫人由子さん談。
 「父は真からやさしい人でした。学問の深さもさることながら、決して自負することのない言動と立ち居振舞。
 父は母の亡くなった翌年の1993年12月31日の大みそかに亡くなりました。一日も病むことなく、お年取りをきっちり済ませ、座椅子にもたれて眠るようにして亡くなっていました。入浴も済ませ、苦しんだ跡もなく優しい顔をしていました。わずかな最期の時間、ひとりにしてしまいみとれなかったことを今でも後悔しています。88歳でした。」

 由子さんは朝の散歩時、義父の墓前を通るのを常とし、その折墓に語り掛けるのを日課としているという。
 伊那山脈、飯田市の竜東段丘の一点に池田家(飯田市出身の孤高の詩人として著名な日夏耿之介(こうのすけ)氏によって無為(むい)山房"と命名)はある。夫と妻、親と子、舅と嫁のうらやむべき家庭が暗夜の一灯のごとくにある。

 なお「脳死」は科学的事実であり、回復不可能、蘇生した例はないという。「植物状態」は脳の外傷・血流障害・無酸素症などにより、意識が回復しないまま長期生存の状態をいうが、池田夫人のように意識回復の可能性があるのだということを、付記しておく。 
(2011年4月30日号掲載)

 
美しい晩年