
一つにはお国のために死ぬのだという軍国主義教育に洗脳されていたことと、もう一つは2年生からの勤労動員で知ったいくつもの理不尽な出来事です。
木曽のダム現場へ
最初に送られたのは、木曽のダム建設現場です。発電所を造るということでした。重労働ができなかった私は、同級生とは別の現場に行かせられました。ケーブルで運んだ物を降ろすだけの簡単な役割でしたが、周囲で重労働をしていたのは大勢の朝鮮人労働者でした。
お昼休みになると、毎日アリランを歌うんですよ。日本人は私一人。私もアリランを原語で覚えてしまいました。お弁当を見ると、大きいのは木製の容器だけで、入っているのは麦飯と大豆を混ぜた主食らしきものと、梅漬けかたくあんだけ。
女子挺身(ていしん)隊が作る日本人の弁当は、米の飯もおかずもあり、宿舎での食事もかなり優遇されていましたので、その差にショックを受けました。どうしてこんな差別をするんだと、この時から差別の問題をつくづく考えるようになりました。
日本人は「朝鮮人、朝鮮人」とバカにしていました。その理由は勉強する機会もないままの人々を連れて来て、奴隷みたいな扱いをしていたからです。国際親善クラブを発足させた当初、まず韓国との親善に力を入れたのは、朝鮮総督府に勤務していた初代会長の倉島至さんの強い意向からですが、私のこの経験も影響しています。
勤労動員では、サイパンが玉砕すると「お前らの責任だ」「怠慢だ」「何やってんだ」と、やって来た将校からビンタをくらうわけです。何で俺たちが悪いんだと、本当にむなしかったですよ。人生の矛盾を感じて、こんな扱いをされるなら死んだ方がマシだと思ってしまう。そうやって優秀な学生が特攻隊に志願したのですから、実にもったいないことです。
日本無線の工場へも
木曽の次は日本無線の工場に送られました。この時は自宅から通い、終戦の年の8月13日の長野空襲にも遭いました。防空壕(ごう)から見ていると、米軍機の操縦士の顔が見えるくらいの低空飛行です。日本は反撃するものを何も持ってないのを知っているからです。
いくら軍国主義教育を受けていたって、この戦争がもう駄目だということは分かりました。爆弾をどんどん落とされる中、竹やりで戦えるわけがない。バケツリレーで消火できるわけがない。でも、それを言えば「御用」になってしまう。
一億玉砕といわれた時は「玉砕してみんな死んだら日本はどこに行くんだろう。日本が消滅するのだから、何て矛盾なんだ」と思いました。戦争がなかったら有能な人が死なずに済み、せめてもっと早くやめていれば被害はもっと少なかった。当時から、そう思っていましたね。
8月15日の玉音放送を聞いた時は、他の人はどうか知りませんが私は「これで腹いっぱい食べられる。平和になる」と心底うれしかったです。もう1年戦争が長引いていたら徴兵されるところでした。
(2011年5月28日号掲載)
=写真=勤労動員が行われた市立長野中学時代の私