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05 〜駅前に移された如是姫像〜

42-kyoudoshi-0604.jpg 私(如是姫)の銅像は1908(明治41)年の「一府十県共進会」(産業振興の目的で農作物や工業製品を出品させ、一般に展覧する品評会)の開催に当たって善光寺境内に建立されました。その場所は本堂西側の経蔵の前でした。

 寄進者は東京市の松山国三郎氏と長野市の青木専助氏で、制作は彫塑家の竹内久一氏(1859〜1916)。竹内氏は明治期の代表的な彫刻家で東京美術学校(現東京芸大)創立時の教授であり、帝室技芸員、文展審査員、古社寺保存会審査員などの要職を兼ね、特に極彩色の木彫家としても有名です。

 竹内氏作の私の銅像は美術的にも優れた作品といわれていました。今の像と違って両手で供物をささげておりました。この銅像は以後、約30年間、善光寺の境内に安置され多くの参詣客に親しまれてきましたが、藤井市政下の36(昭和11)年に仏閣型長野駅舎ができるのを契機に駅前に移されることになりました。

 市は私を駅前広場に移し水盤を設けて常時、清麗な水を噴出させ、仏都・長野入りの善男善女に清らかな印象を与えようと計画しました。そして、保存会に移転交渉を開始し、11月20日の恵比寿講までには駅前へ御輿入れする予定でしたが、思わぬトラブルが発生して、私は運び込まれた鉄道の暗い倉庫の中で幾日かを過ごすことになりました。

 その原因は、如是姫寄進者銘を刻んだ銅板を台座の真ん中にはめ込むことの可否をめぐる市の土木委員間の意見対立でした。おまけに11月13日、善光寺境内からのお引っ越し作業中、足場が滑って大地へ転落し私は足を負傷してしまい、つらい思いをいたしました。それでも何とかして、年末までには駅前広場の噴水付きの台座に取り付けられました。

 かくして仏閣型の駅舎を背景にした私の銅像は、仏都玄関の新風景として駅頭を飾ることになり、多くの来訪者に親しまれ、しばし平和で幸せな年月を過ごしました。しかしそれもつかの間、移転の翌年には日中戦争、4年後には太平洋戦争に突入。この私も戦争の時代には供出され武器や砲弾となり、台座の下は防空壕になりました。その私が再建されたのは、戦後の48(昭和23)年のことです。

 そして、97(平成9)年には仏閣型の駅舎も取り壊され、私はたった一人で、善光寺様に向かってご供物をささげているのです。

 =本編は長野市観光課所蔵文書「見つめる先は善光寺さん」(作者不明)を筆者が加除したものです。
 (2011年6月4日号掲載)

=写真=今の像と違って両手で供物をささげていた