
私はこのころから体も丈夫になり、成績も良くなってきました。「医者になれ」という先生もいました。これには「医者だけは勘弁してください」と答えました。小さい時からよく病気になり、そのたびにお医者さんが飛んで来てくれたので、自分が夜中に起こされて往診するのは嫌だと思ったのです。
最終学年の5年次には、先生に言われて朝礼の指揮を執りました。また、今振り返っても画期的だったのは、卒業アルバムの製作です。友人に相談すると「人生の記録としてやろう」ということになりました。当時としては斬新な発想でした。
知り合いの写真店に行き、値段を交渉しました。家が商家だったので、こういうことは得意です。授業風景なども撮影してもらい、立派なアルバムができました。当時、こんなものを作った学年は後にも先にもありません。
差別と暴力が大嫌い
戦時中の経験もあって、私は差別と暴力が大嫌いです。ところが終戦で荒れていた当時ですから、先輩が後輩をひっぱたくこともしょっちゅうでした。「なぜ殴るんだ」と聞くと「俺だって下級生の時にやられたから」と言うのです。私は「ふざけるな」と怒ってやめさせたりもしました。
禁止されていた英語の授業も始まりました。しかし戦時中に勉強できなかったことのツケは大きく、大学に行きたかった私にとっては学力不足に苦しんだ日々でした。信大から来ていた英語の先生がよかったので、家庭教師に来てもらいました。英語は一番好きな教科でしたし、世界地図を見たときの衝撃はそのままで、外国へ行きたいという気持ちは戦後ますます募るばかりでした。
父母は小出商店を再開させました。小売りの復活はまだ無理で、土蔵を使って卸の方を先に始めました。復員した従業員も戻って来ましたし、物さえあれば売れる時代に、それまでの実績で信用のある小出商店の復活ですから、相当もうかったと思います。
父は事業拡大に懸命
それで父は直江津で塩田を興し、自らせっけんの製造工場も始めました。私は長男で跡を継ぐのだという責任は感じていたものの、商売にはそんなに興味はありませんでした。努力家の父を信頼していたし、繁盛している家業に気を配ることなく学業に専念していました。
実は父は飯山の伊村菓子店の息子で、飯山中学の学生の時、小出家の養子になるために中退させられていました。いったんどこかへ丁稚(でっち)奉公し、小出家の跡取りになったのです。そういう事情ですから、先祖から引き継いだ商売を大きくしようという気負いが人一倍強かったのではないかと思います。
業界での信頼度は抜群の小出商店を従業員に任せ、塩田とせっけん工場に父が一生懸命になっていたことは、とんでもない事態につながる導火線に火を付けられたようなものだったことに、当時の私が気付くはずはありませんでした。
(2011年6月4日号掲載)
=写真=立派に出来上がった卒業アルバム