
母方の祖母から「博治は商売よりも外交官に向いている」と言われたのが、頭の片隅にあったのかもしれません。しかし、今のような情報のない当時の子どもにとって、身近に例のない仕事を具体的に思い描くことはできませんでした。それでも私は「大学には行きたい」と思いました。長男として、いずれ家業を継ぐのは当然としても、なるべく広い世界を見たいという好奇心の強さは人一倍だったと思います。
近くの信大工学部へ
父からは大学進学を反対されました。「どうせ商売を継ぐのだから、学問よりもどこかに修業に出た方が実践的だ」とのことでした。私は「それは分かるが、お金は一晩でなくなることがあっても学力は一生残る」と説得し、なんとか進学を許してもらいました。
とはいえ、大学について相談できる人はいません。近くの大学といえば現在の信州大学工学部(当時は長野工業専門学校)。今は人気のある工学部ですが、何も知らない私は「工学はまだこれからの学問だから希望者は多くないだろう」などと勝手に思い込み、また、はっきりした将来像があっての進学ではないので選び方のポイントもなく、なんとなく電気通信科を受験することにしました。
親の反対を押し切っての受験ですから、失敗するわけにいきません。好きで学んでいた英語に加え、数学の家庭教師も頼んで猛勉強しました。合格できた時は本当にうれしかったですね。
ところが、大げさではなく3日で「ここは自分に向いていない」と確信するようになりました。朝から晩まで高等数学ばかり。工業専門学校だから当然なのに「こんなことが何の役に立つのか」と悔やまれ、自分に向いた学部をきちんと検討しなかったことを激しく後悔しました。
親に言ったら「じゃあ辞めろ」となるに決まっています。相談相手もなく、悩み、悶々としながら通学する日々でした。工業学校生なのに理系科目は及第点すれすれ。一方で英語とドイツ語の点数は抜群で、先生にも「入った学校を間違えたな」と言われたくらいです。
ここではっきり、私が学びたいのは英語だと知ることができました。学校は途中から信州大学工学部となりましたが、最後まで工学部で学ぶという意欲も自信もうせるばかりでした。
東京外大を再受験へ
英語の先生は羽方先生といい、戦後の英語の授業復活に伴い市立中学にも教えに来ていた方です。家庭教師をお願いしていたのもこの先生で、学業に関しては最も頼りにできる存在ですから、「実は思い切って東京外国語大学を受験し直したい」という相談をしたいと思うようになりました。
しかし羽方先生は肺の病気を患い、今の東長野病院に入院してしまいました。確か3年次かと思いますが、私はとうとう決心して大学に休学届を提出しました。東京外語大を受験し、不合格だったら復学しようという軽い気持ちでした。
(2011年6月11日号掲載)
=写真=大学時代の運動会で(右側の先頭が私)