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07 〜不退転で長野飛行場推進〜

44-kyoudoshi-0625p.jpg 1920(大正9)年7月、逓信省は10カ年計画で全国の主要都市を結ぶ民間航空路開設案を立て、その中に(1)東京-長野-新潟(2)大阪-富山-長野の2線が含まれていました。

 そこで長野に飛行場を造るとしたら、どこが適当かという課題が第6代丸山市政時代からの懸案となっていました。

 1931(昭和6)年には市議会を母体に「飛行場建設委員会」が設置され、その年の8月に候補地として、第1が大豆島から朝陽村へかけての桑園地帯、第2が飯綱高原一の鳥居付近、第3が川合新田南の犀川べりの3カ所が挙げられました。

 その後も候補地選びは続けられ、藤井市政下の36年9月にようやく"川合新田村落と松岡村落の中間地域"が有力候補地に目されました。そこで藤井市長は上京し、逓信省、内務省などと相談、川合新田が飛行場の適地であることと、最悪の場合は土地収容法の適用もあり得るとの方向付けがなされました。

 これを受けて市民の中からも飛行場建設促進の動きが現れ9月14日、芹田地区では「芹田各種団体期成同盟会」を結成。17日には、飛行場予定地の中心である川合新田区協議会が"建設承認決議"を行いました。

 ところが9月19日、川合新田区の地主・小作らの区民大会で小作人たちが「飛行場設置絶対反対」を叫び、会議は紛糾しました。その後も川合新田区では耕地約7万坪(約23ヘクタール)が奪われると、地主間でも"土地不売連判状"を作って調印の取りまとめをする動きも発生しました。だが、長野市当局は36年8月13日付の「長野市の飛行場は国策的見地から推進!」との藤井市長声明を基本に不退転の決意を持って地元民の説得に当たりました。

 その結果、土地買収価格などで両者が歩み寄り、円満解決へと事態は展開しました。

 すなわち、37年7月28日には松岡地区の全地主会議が市提示の条件を応諾。30日には川合新田区の対策委員会も市の提案を承認しました。

 こうして、8月2日に川合新田公会堂で、地主側委員27人と市の高野助役、徳倉委員とで買収応諾の手打ち式が行われたのでした。そして逓信省から6日に「長野飛行場建設許可」がおりました。

 同飛行場の建設起工式が現地で行われたのは10月18日のことで、開式時には熊谷飛行学校の陸軍機が式場上空に飛来。30メートルの低空からメッセージ入りの通信筒が投下されました。

 かくして建設費47万円、総面積24万8040平方メートル、幅員30メートル、延長600メートルの滑走路を持つ長野飛行場が竣工しました。翌38(昭和13)年10月18日、第8代の高野市政下のことでした。
(2011年6月25日号掲載)

=写真=長野飛行場の竣工記念絵はがき