
たとえ外語大の入試に合格したところで、信大を休学している身分では両方取り消しになってしまう。かといって信大を退学して外語大に不合格になったら、戻る場所がなくなります。私立なら大丈夫と言われましたが、その考えはありませんでした。
宙ぶらりんな1年
正直なところ、一般教養とは異なる受験のための勉強を再開したところで、現役の受験生に勝てる自信もありません。いったん受理された休学届の取り消しもできないということで、宙ぶらりんな状態で1年ほどを棒に振ることになってしまいました。
この間、何をしていたのか、実はほとんど記憶がありません。語学の授業だけ出席したり、家で英語を勉強したり、ぶらぶらしていたのでしょうが。ちょうど復学前後の晴天の霹靂のような出来事に巻き込まれ、休学中の記憶が吹っ飛んでしまったのかもしれません。
外語大受験はあきらめるとしても、何とか生きた英語を学びたかった私は、復学前の春休みを母の実家にやっかいになりながら、東京の語学スクールに通うつもりで、一人上京しました。
その直後、まるで私を追ってきたように長野の実家から電報が届きました。「一大事、すぐ帰れ」という内容です。訳も分からないまま、しかしとんでもないことが起きた胸騒ぎを覚えながら、私はすぐに帰省しました。
家に戻ると、税務署の職員が家中の物に「差し押さえ」の紙をぺたぺた貼っているところでした。家具から電気器具から全てにです。父は寝込んでしまっていました。税務署長が「本意ではありませんが、仕事ですからやらなければ...」と、私たちに同情しながら涙を浮かべていました。
終戦後に復活した小出商店を復員してきた従業員らに任せ、父が塩田とせっけん工場を自分で始めたことは、すでにお話ししました。父が新しい事業にかかりきりの間に、二重帳簿が作ってあり、それが発覚したようなことは聞きましたが、家の商売にあまり関心のなかった私に確かなことが分かるはずはありません。父にしたら、塩田もせっけん工場も失敗に終わり、家業に戻ったらとんでもないことになっていたということになります。
緩かった封鎖シール
着る物まで差し押さえられ、私に残されたのは少しの下着と学生服だけでした。でも面白いことに、タンスをシールで封鎖しても、のり付けをきっちりとしていないのです。きっと少しなら抜いていいという意味だったのでしょうか。母から譲り受けた着物を私の妻も着ているところをみると、あの時に少し抜いておいたのではないかと思います。
祖父の名義だった家は無事でしたが、小出商店は父名義のため没収され、父が後に買い戻しました。父は3日間ほど放心状態で寝込んでいたのに、母は意外に元気でしたね。予想外の事態になった時、男は弱い。強いのは女だと感じました。
(2011年6月18日号掲載)
=写真=正月には羽子板を並べた小出商店