
父は「銀行の信用があってこその小出商店。手形が落ちず銀行の信用をなくしたら、事業を続けることはできない。店は終わりだ」と私を諭しました。そして翌日から私は行商に出ることになりました。
自分たちで独立して新しい事業を興すために従業員は去っており、「小僧さん」と呼ばれていた、見習いの男の子が2人残っているだけでした。そのうちの1人が私のお供となりました。
小僧さんを助手席に
タイなど東南アジアの乗り物としてテレビや雑誌でよく取り上げられる「サムロー」という三輪車がありますね。ちょうどあれと同じ型の車があり、私が運転。小僧さんを助手席に商品を後部に積めるだけ積んでは、毎日毎日行商に回りました。遠くは父が担当するので、私は長野市内や須坂辺りまでの近間でした。
行き先は日ごろから商品を卸しているお得意さん。これまでの長いお付き合いで信頼関係がありましたし、今と違って物があれば売れた時代ですから、販売自体に困ることはなかったのですが、長男なのに家業に無頓着だったものですから、「八掛け」とか「七掛けにしてくれ」などと言われても意味が分かりません。高等数学はできるのに、商売のイロハは全く知らないことを思い知らされました。
価格交渉に対しては、小僧さんに原価を尋ね、損をしなければいいという値段を決めて売りまくりました。せっけんなどの日用品と、コマーシャルでも有名だったジュジュ化粧品も代理店になっており、面白いように売れましたね。この時の行商の目的は、手形の期限までに銀行にお金を入れて急場を切り抜けることですから、4カ月ほどでめどが付いた時点でやめました。
英語の勉強のために上京した途端に呼び戻され、嵐の中をさまようような日々でした。小出商店の跡取りとしての責任感というものは無意識のうちに染み付いているし、それについて不平不満を感じることが許されるような時代でもありませんから、私だけが学業を中断して父を手伝うことに疑問を感じたことはありません。
自分の好きな道を
ただ、後に自分が親になって最も意識したのは「子どもたちは家業にとらわれることなく、自分の好きな道を歩んでほしい」ということでした。たまたま子どもが女だけだったからかもしれませんが、男の子がいてもたぶん同じだったと思います。安定した企業に勤めていた娘が、辞めて自分で事業を始めたいと言った時も「好きなことをするのが一番だ」と応じました。親は子どもより先に逝くのですから、親の考えで束縛するのは良くありません。
私がこの考えを貫き通したのは、跡取りの責任を優先させなければならなかった自分の経験があったせいだと思っています。親を恨むような気持ちはないのですが、複雑な思いは、年を取ってもなかなか整理がつきにくいものでした。
(2011年6月25日号掲載)
=写真=行商で危機を切り抜けた後の小出商店。クリスマスセール用サンタの顔が目を引く