
1951(昭和26)年に家業の危機を救った行商を終えると、次の試練は学業でした。何もなければ春から復学していたはずなのに、行商で出席できないまま夏休みになってしまったわけです。担任の先生から「どうせ家業を継ぐのだから学業を続けても無駄ではないか」「辞めたらどうだ」と説得されました。
極めつけは「75日以上欠席すると本当は卒業試験の受験資格はない。ただし、全ての教科で平均点より10点以上上回る点数であれば考慮する」という申し渡しでした。
テストだけは...
すでに75日欠席していた私は、これを知って血の気が引く思いでした。ただでさえ語学以外は及第すれすれの点数。しかし、どうしても卒業したかったので先生に「あそこで頑張っていれば...という後悔だけはしたくない。点数が悪かったらあきらめますから、テストだけは受けさせてください」と頼み込み、夏休みから猛勉強しました。
まず優秀な学友のノートを借り、コピー機などない時代ですから県女子専門学校(現県短大)に通っていた妹や妹と同級生のまたいとこの小出仲子を動員して手書きで片っ端から写してもらいました。それを参考に必死で勉強しながら「自分は学生で、何も悪いことをしていないのに、この仕打ちは何なのだ」と神様を恨みたくなりましたね。試験が通らなかったら自殺しようとまで思い詰めていたのですから、純粋だったということでしょう。
あの追い詰められた気持ちは、心の一隅を陣取ってなかなか消え去ってくれませんでした。今はさすがに夢こそ見ませんが、40代になるころまでは、テストの点数が基準に達しない悪夢にうなされることがよくありました。私は親を尊敬していましたが、あのときは「もっと頭が良く生んでくれれば、こんなに苦しまなかったのに」と思ったものです。
努力のかいがあり、私は卒業することができました。本当にうれしかったですし、特に後に海外の人とお付き合いをするようになってからも、一生ついてまわる学歴の重要性を感じ、断念しなくて良かったと思いました。
これは私の想像ですが、先生方も私の熱意を見て評価を甘くしてくれたのではないかと思っています。にわか勉強で全教科で平均点を10点以上も上回るなんてちょっと考えにくいですからね。そして、あんなに一生懸命やった数学など理系の内容は卒業後きれいさっぱり忘れ、仕事に活用する機会もないままです。
無理でもやり通す
こうして5年がかりで卒業した大学生時代を振り返ると、好きな分野へ真っすぐに進むことができず、遠回りしてしまった感は拭えません。ただ、自分がどうしてもやりたいと決めたことは、置かれた状況の中で少々無理があっても周囲を説得してやり通すのは、その後の私の生き方に一貫する姿勢だと思います。
まだ日本経済が安定しない時代に技術系の就職活動をする学生たちは大変だったでしょうけれども、私はそういう苦労を知らずに社会人の第一歩を(株)小出商店の跡取りとして踏み出しました。
手形の件が一段落し、家族全員力を合わせて店を復興させようという時期でした。私が事業に集中できるようになったことや、先祖からの資産があったおかげもあり、没収されていた小売り部門なども買い戻し、経営を安定させるのにそう長くはかかりませんでした。
(2011年7月2日号掲載)
=写真=大学を卒業し小出商店の跡取りに(左端が私)