記事カテゴリ:

11 跡取り 〜小出商店の専務に 野球チームを発足〜

11-koide-0709p.jpg

 行商によって危機を脱すると、父はそれまで個人事業だった店を株式会社にしました。1952(昭和27)年に大学を卒業した私は、(株)小出商店に専務として入社。徐々に従業員も採用し、なんとか野球チームができるくらいの人数になると、私は我が社のチームを発足させることにしました。


 中学で卒業アルバムを作ったり、後の国際親善クラブ設立、一校一国運動提唱など、私はどちらかというと新しいアイデアを考えるのが得意で、野球チームをつくったのも、お付き合いの新しい形としてのことです。


 「レッドソックス」

 当時、学生時代も仕事の上でも、どぶろくを飲みながらマージャンというのが付き合いの主流でした。私は酒が飲めませんし、マージャンもあまり好きになれませんでしたから、野球で交流しようと考えたわけです。小中学校では体が小さいながら相撲が結構強く、陸上では短距離、大学時代はよく志賀高原にスキーに行くなどスポーツは嫌いではありません。


 大きなお得意さんが国鉄(現JR)の物資部で、そこのチームとの交流が一番の目的でした。大リーグのレッドソックスの赤いソックスがカッコいいなと思って名前をいただき、小出商店版「レッドソックス」とし、赤いソックスもまねました。


 人数が足りないと社外の友達も動員して物資部のチームと一緒に練習や試合をしたのですが、格好はともかく成績ではまったく歯が立ちませんでしたね。ただ、卸の会社で野球チームを持っているなんてところは他になかったと思います。


 商売好きの母が采配を振るって戦前から繁盛していた小売り部門は、差し押さえにあった後に買い戻し、「おしゃれの店コイデ」として再スタートしました。東京麹町育ちの母が、流行のアクセサリーや和装品を東京で直接仕入れて来るのですから、当時の長野の店としては群を抜くセンスで人気店となっていました。今でも当時のお客さまがそのころ買った物を大切に持っていてくださるという話を聞いて感謝しています。


 小売りは苦手

 私自身といえば何度も申しましたように、長男という成り行きで跡を取ったものの、やはり「商い」には向いていないと感じました。かといって懐疑的になっている余裕もなく、ただ一心不乱にやるしかない。そんな日々でした。


 細かい事や細かい物を扱うのが好きではないので、特に小売りは苦手でしたね。商売をするなら大手商社のような国際的取引、官僚なら外交というように外に向かう大きな仕事に興味がありました。商人ではなくて、企業人になりたかったのだと思います。


 こういう性格に加えて、世間知らずの坊ちゃん育ちが、その後の人生の失敗も、いくらかの成功をも招くことになったのだろうと思います。


 失敗というのは家業の面で、後ほどお話しします。一方で国際親善クラブ会長としての今日の私は、家業とは別の道を歩んだためにあるともいえますが、その方面への先鞭(せんべん)となるような出会いも、父の会社への入社と同じ年に巡ってきました。


 仕事を通じてたまたま知り合った人から「タイに行きませんか」と誘われたのです。駐在か何かでバンコクに住んでいた人で、ホームステイ先を紹介するということでした。外国旅行など一般的でない当時としては希有(けう)のチャンスです。とうとう外国行きの夢がかなう。外国ならどこでもいい。私は胸がときめくのを感じました。

(2011年7月9日号掲載)


=写真=野球チームで新しいお付き合い

 
小出博治さん