
蒸し暑い休日に妻子や孫を連れていくのに、上松(湯谷地籍)の古刹・昌禅寺(しょうぜんじ)がよい。杉木立の門前に出ると涼風が頬をなで、汗がスーッと引いていく。場所は地附山の北麓。眼下には湯谷小学校を中心に住宅街が広がり、眺望も良い。
樹齢100年以上と思われる杉の古木と、戦後植林の若木が交ざる。うっそうとした樹林に山モミジが軽やかな風情を添え、典型的な日本画や、京都の有名古刹を思わせるような境内だ。
「瑞雲山和合林」が寺の称号。山麓にあるから湧水が多い。しっとりとした下生えと石仏群が続く参道を上り、山門をくぐれば豪壮な本殿や優雅に手入れされた左右の松の古木が迎えてくれる=写真上。本堂左手には開山堂・座禅堂が並び立ち、凜とした禅寺(曹洞宗)の伽藍だ。

「開山から500年以上。檀家は800軒ほど」と第26代の佐藤智賢住職はさりげなく言うが、その由緒は並々でない。徳川幕府から朱印領をいただき、代々の松代藩主を育てた乳母らと深い縁があり、六連銭(むつれんせん)マークの駕籠を与えられていた。
廃仏毀釈の前、1872(明治5)年当時は末寺・末庵が27もあった。浅川から旧上松村住民の尊敬を集め、一帯の行政センターのような地位であったという。
有為転変も数多く、太平洋戦争では境内の立ち木1900本中、1100本を切って供出した。市内の材木店に杉の巨木の搬出風景の写真が残る。トラックに載る長さ十数メートルの材木は、「海軍戦艦の甲板に使われたのではないか」とは古老の話だ。

境内には子どもたちがびっくりする見ものがある。石造りで数トン、座高が大人の背丈ほどもある真っ赤な「浅河原(せんから)地蔵」だ=写真下。地元の浅川の河原から出現し、地域の守り本尊と伝承される。
すぐ近くには、昭和30年代まで市内のお年寄りの「一日湯」で人気だった「湯谷の湯」の建物が残っている。
「ものすごく長いコンクリートの滑り台があって、お風呂に入るより楽しかった」。朝夕、近辺を散歩をするお年寄りの子ども時代の思い出話だ。沸かし湯だったが、地元住民の銭湯が発展して市内のレジャーセンターになった。
(2011年7月2日号掲載)