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12 初の海外 タイでホームステイ 文化の違いを体験

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 1952(昭和27)年に初めての海外としてタイ行きのチャンスに恵まれたとき、協力的だったのは祖父で旅費を出してくれました。外の世界に目を向け過ぎて家業がおろそかになるのではと心配したのか、父はあまりいい顔をしませんでしたね。


 バンコクのホームステイ先から届いた招聘状を携え、東京のタイ大使館でのビザ取得からチケット手配など、渡航準備の一切を自分でしました。後に東京で旅行会社を始めたとき、海外旅行がまだ一般的でなかった時代に全部自分で手続きした経験が役立ちました。

当時は16時間も...


 運良く3カ月の商用ビザが降りました。今なら8時間弱で行けるバンコクまで当時は16時間もかかりましたが、いつまでも飛行機に乗っていたいうれしさでした。私が乗ったのはプロペラ機でしたが3カ月後の帰路、給油のために寄った香港の空港でジェット機を見掛け、時代が変わるのだなと感じました。


 バンコクは戦争で荒廃した様子もなく、のどかそうに見えました。ちょうど朝鮮動乱の真っただ中で日本円は使えず、ドルに換金するしかありませんでした。1ドル360円で、しかも持ち出し制限付き。つくづく「国というのは経済力がないと駄目だ」と感じ、日本が豊かな国になることを望みました。


 最初は苦手だったパサパサの米や辛い料理も食べられるようになり、タイ語も覚えました。しかし細かいニュアンスになると、伝えることも理解することもできません。最初の外国で言葉の通じない苦しさを心底味わったせいで、今になってもなるべく英語は使いたくありませんね。


 タイ人と結婚している日本人男性から「若いときは情熱だけでいいかもしれないが、子どものしつけや教育問題になると非常に難しい」と聞き、当時まだ結婚のことなど頭になかったものの「国際結婚は安易にすべきではない」と感じました。


 お風呂がないのには困りました。たまたまホームステイ先が精米所で、洗米して排水している湯の加減をみると適温。快適だったので風呂代わりにしていると、近所の子どもたちも面白がって飛び込んできました。


 でも3日で来なくなり、私の方も気候に慣れてくるとお湯では体が熱くなり過ぎ、その後はタイ人のようにミョウバン入りの甕(かめ)の水を浴びるだけになりました。


川流れ死体に仰天

 川を流れてくる死体を発見したときはびっくりして大騒ぎしたのに、みんな無関心です。「タイの人は人情がないんだ」と思ったのは間違いで、後に水葬だったのだと知りました。文化の違いを体験し「これから絶対、世界中を回ろう」との意を強くしました。


 このときの日本大使が遠戚筋ということで会うと、「なぜタイに来たのか」と聞くものですから「まずアジアを知り、それから欧米に行きたい」と答えると「面白いことを言うな」と言われました。アメリカ一辺倒の時代だったせいでしょう。私としては外国ならどこでもよかったのですが。


 帰国の日、ステイ先のお母さんが早朝から起き、大きな鍋に入れた油に、溶いた卵の黄味をお蕎麦(そば)のように細く出しながら揚げる伝統菓子を作って持たせてくれたことをよく覚えています。私に異文化の魅力を教えてくれたタイへは、その後も3、4回行っています。

(2011年7月16日号掲載)


=写真=異文化の魅力を知ったタイで


 
小出博治さん