
タイから戻ってしばらくすると、父から「お前、好きな娘はいるのか」と聞かれました。当時、私は25か26歳。そのころの男性としてはちょうど適齢期ですが、正直なところ結婚のことは全く考えていませんでした。
「もっと頑張って社会的にもある程度評価されるようになったら考えたい」と思っていました。漠然と、立派になったらどんな女性でも選べるような気でいたのですから、人生を分かっていない若者の夢でしたね。
親にしたら「放っておくと外国に行ってしまいそうだから、鎖止めしておかないと」という焦りがあったと思います。実際、長男でなければ私はたぶん外国に行ったか、少なくとも地元にはいなかったと思いますね。「好きな女性はいない」と答えると、お見合いをさせられることになってしまいました。
妹への義理もあり
このお見合いには、実は私の方にも弱味があったのです。私より先に妹が結婚していたのですが、その妹の嫁ぎ先が仲介者でした。妹は長野県短期大学在学中に絵画のモデルになったことがきっかけで、中村岳陵という有名な日本画家の家に嫁いでいました。
「美人じゃないんだからもらい手があるうちに早く嫁に行け」と強く勧めたのは私で、後に思いがけない問題が起きていたことで兄として責任を感じていました。この妹が離婚後に始めたのが「とんかつ まい泉」です。
妹への半分義理のような形で見合いをした相手が、家内の睦子です。今は合併で北九州市になっていますが当時は門司市と言い、関門海峡を挟んで下関市と向かい合う、港町として栄えた所の出身です。たまたま彼女が逗子に来ていたことから、引き合わされることになりました。
「どうだ」と聞かれて「別にどうということはない」と答えると、「早速結婚しろ」と言われました。「そんな急に無理だ」と言うと「好事魔多しだから5月に結婚だ」。見合いが3月ですから、たった2カ月先ではありませんか。「せめて秋まで」と食い下がってみましたが、当時の結婚なんてこれが普通でしたね。私としては「これで人生が終わった」みたいな気持ちでした。
勇敢に嫁いだ家内
彼女は長野のことを何も知らない。私も相手の家やら何も知らないのですから、「あまりに乱暴。せめて家族や家を見せてくれ」と頼んで、家内が家に帰るのに同行させてもらうことにしました。当時、東京から門司までは一晩がかり。「遠いなあ」と感じました。
家内の家は、門司港の事業を独占するほどの大きな会社を営み、住宅も非常に立派でびっくりしました。それに比べたら信州など田舎。そんな田舎へ一人で行くことに家族は反対したようでした。
しかし戦後、財閥は解体させられ、預金封鎖や新円切り替えなど、かつてのお金持ちにも波乱の時代だったので、長女としての家内には、それなりの考えがあったようでした。
こうした不思議な縁での結婚式は、1954(昭和29)年に東京の帝国ホテルで行いました。仕事の取引先が多く、門司と長野の両方から行きやすいのが東京だったからです。結婚写真を見ますと、化粧や着付けが上品で今見ても古さを感じさせませんね。一人も知り合いのいない長野に勇敢に嫁いだ家内に「やはり女性は強い」と、あらためて感じ入りました。
(2011年7月23日号掲載)
=写真=結婚式の記念写真