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30 「死」とどう向き合うか2

 老子(中国春秋戦国時代の思想家。道家〈道教〉の祖)の日本における位置は、孔子や儒教に比べると一歩譲らざるを得ないと思うが、永年にわたって日本思想界に大きな影響を与え続けてきた人だ。


まことに死は、よそ事でなく...


 その老子が、

  人は、生き方はさまざまに異なるが、死においては同じである。

 と、言っている。まことに分かりやすくそのとおりで、注釈は要らない。よく言われることであるが、この世で権力の座にあって威張り散らしていても、豪奢な生活を送ろうとも、いかなる財宝を積もうとも、あの世へは何一つ持っていけないと知りつつも、この世での現状は高慢な人、虐げられている人、貧富を見ても、身形(みなり)を見ても格差だらけだといっていい。


 祈りや神仏を尊んだ時代、歩く宗教が生活そのものだった時代の人たちは、生まれてきたからにはこの世での辛労は耐えて耐える。全く差別がないというあの世(極楽)へ行けるのだと思うと、心置きなく安心して死ねる。浄土への渇仰(かつごう)そのままの-。


 1日24時間が何人にも公平に与えられているように、空気が分け隔てなく吸えるように、あの世では全てにわたって平等だというのは、何と素晴らしい天の配剤であることか。死後、なお差別があり続けるんじゃたまらないのである。極楽はいい所らしい。その証拠には、行ったきり帰ってきた人は一人もいない。そんな軽口も出るほどだ。


 識者の弁を聴こう。


 すべての人間のなかで、ある人は死に、ある人は死なないとなると、死ぬことがどれほどすさまじい悲嘆となることだろう(ラ・ブリュイエール=フランスのモラリスト)。


 空気や時間など生きるためのギリギリのものは、何人にも公平であることは前にも書いたが、人の世の総決算である死からも逃れられなく、また年齢順でないことも天の配剤というほかはない。


 あの人が死んだ。さあ次はオレだということになると、居ても立っても居られない事態となることであろうし、仮にも金を積んだら死から免れ、不老長寿が約束されるなんてことがまかり通ったら、とんでもないパニックとなること必定だ。


 モンテーニュ(フランスの思想家)はこう語る。


 人は死んでしまうのが怖ろしいのではない、死ぬことが怖ろしいのだ。


 「死んでしまう」という段階では、いずれ死ななきゃならないことくらいは、知識として知っている。一般論としての理解で、そこには誰しもが死ぬのだ、みんな一緒なのだ、オレばかりじゃない、ワタシばかりじゃないと、どこかよそ事気分があって、自分事としての切迫感がないというのであろう。


 ところが「死ぬこと」となると、胸元に刃(やいば)を突きつけられて「いいか、お前も死ぬんだゾ」と、厳しく問い詰められ、自覚させられるところがある。たじたじとして後ずさりする自分が見えてくるのである。


 飄々たる人生

 洋画家・随筆家として知られた曽宮一念は世俗にこだわらず、超然とした人生を送ったうらやむべき御仁と承っている。飄々とした生涯を生き切った人のようだ。その一念は、


  本当に店じまい、人間の命の方も店じまいさ。若い頃は死ぬことに一種恐怖感があった。

  だが、不思議なものでね。年とると怖くなくなるのだね。九十過ぎるとね。

  〈願わくば落葉に埋もれ我死なん霜月半ば凩(こがらし)のころ〉

  花よりも落ち葉に埋もれた方がよけい風流じゃないかね。

 と笑い飛ばしている。

(2011年7月16日号掲載)


 
美しい晩年