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02 〜国民精神総動員で耐乏生活〜

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 1937(昭和12)年9月15日、市長選出のための長野市会が開かれました。


 投票の結果は、助役の高野忠衛17票、県会議員の羽田重一郎16票。その差は1票で、しかも、高野の票の中に疑問票が見つかり、これが問題になりました。


 その後、県当局や内務省絡みで票の再調査が行われ、結局、高野の市長就任が決まったのは10月3日のことでした。その間、高野は事態の推移を冷静に見守り、市長就任の前提条件となる助役辞任の時期の問題に対処しました。


 高野は10月3日の市会において市長就任の抱負を次のように語っております。


 「浅学非才ひとえに各位の御支援と御指導によって、この重責を果たしていきたい考えであります。藤井前市長は人の和をもって市政の方針とされましたが、私も前任者の意図を踏襲していきたいと存じます。


 殊に非常時局に際し、国民精神総動員計画が実施されんとするに当り、その感切なるを覚えます。


 この理想に加えて笠原議長の唱導される滅私奉公の精神を実践理念として市政に当たっていったなら、そこに自らよき一致点が見いだせる事と信じます。


 私はこの信念の下に和協一心の市政の実現を切望する次第であります」


 日中戦争勃発直後に発足した高野市政は極めて厳しい戦時体制下に置かれました。そして「国家総動員法」下の国民精神総動員運動に駆り立てられ、戦争目的達成のために市民生活の自由は一つ一つ奪われていきました。


 この時期、国民徴用令や学徒動員令が発令され、米穀配給統制応急措置令、衣料切符制など戦時中の重要措置が、次々と実施されていきました。


 特に40年から翌年にかけて、砂糖、マッチ、木炭が切符制となり、米も配給制となりました。政府は「ぜいたくは敵だ」の標語で国民に耐乏生活を求め、国民服を定めたり、物価や賃金などを統制しました。


 そのため、国民生活は極度に不自由なものとなり、高野市政下の長野市民もその例外ではありませんでした。

(2011年7月30日号掲載)


=写真=高野の市長決定を伝える信濃毎日新聞