
長野市内で秋祭りのトップバッターを務めるのが大門町の熊野神社だ。お盆が終わると翌日の8月17日、地元の氏神さんとして、今年も神主のお祓いが行われた。
神楽も踊りも獅子舞もない。神事の後は、町内一同そろって直会(なおらい)をする。健康や商売の弥栄(いやさか)を祈り、絆を深める...。文字どおり、氏子信仰の原形のようだ。
善光寺の参道西側に面しているが、間口2メートル弱で境内もないので見逃してしまう人が大半だ。気が付いても「なぜ、お寺さんの参道に熊野が...」と首をかしげる人が多い。
全国で一番多いのが諏訪神社で6000社以上。熊野をルーツとする神社も3000社以上といわれる。「熊野に縁ある」と伝承される小さな祠や樹木、巨石、珍石などを数えれば何万という数になるはずだ。
古絵図を見ると、かつて諏訪社と熊野社は善光寺の境内にあった。熊野の「浄土信仰」が室町時代以降、善光寺街に波及していた名残だろう。熊野修験者や熊野比丘尼(尼・芸人)が門前を闊歩していたとうかがえる。
「この神社の御利益は何ですか」
「熊野権現さまですよ。オールマイティー、なんでもOKですわ」
北隣の薬局・永寿屋さんの母堂・北沢登志子さんの答えだ。「軒下の組物彫刻は左甚五郎の作といわれています。旧社殿から移したもの。社殿の下には"神護石"が埋まっていますから、祈ればなんでも成就します」

「して、その石とはどんなもの?」
「社殿は以前、西南裏の鐘鋳(かない)川の淵に鎮座していたのですが、1962(昭和37)年、長野信用金庫の本店(現大門町支店)を拡張するために、今の場所にお移ししたのです。その際、ご覧になった方も多くは鬼籍に入られて...。石が金剛石か瑪瑙(めのう)石か、私は拝見していませんが、当時の神職さんはきっと目撃しているはず」
熊野神社を門衛のように抱えているのが長野信金だ。この地の古い旅館建物を店舗にして、創業したのは23(大正12)年9月1日。なんと関東大震災の当日だ。それから幾星霜。昭和の大恐慌、第2次大戦、戦後の経済混乱、景気の盛衰を乗り越えて、県内庶民金融の雄に発展した。
大揺れのなかで誕生したから、多少の転変にはびくともしない堅実さを誇る。神護石の御利益はまざまざというところか。
(2011年8月27日号掲載)
=写真=小さいが豪壮な社殿