
1954(昭和29)年に結婚したので落ち着いて家業に専念できたかというと、そうはいきません。体はここにあって商売をしていても、頭の中では世界の国々、人々への思いが膨らむばかりでした。ちょうどそんなとき、小出商店の卸部門が東京へ進出することになりました。父はまだ元気でしたし、弟も加わり業績が伸びていましたからね。
私も頻繁に東京へ出張しているうちに、知り合った人から「一緒に旅行会社をやらないか」と持ち掛けられました。というのは、それまで一般国民が単なる観光で海外に行くことはできなかったのですが、63年に渡航が自由化されたのがきっかけで、東京では旅行会社の創業ラッシュのような現象が起きていたのです。
そんなブームに乗じ、海外旅行専門の会社創立に加わらないかという話です。さすがに家業を捨てるわけにはいきませんが、興味があったので出資だけしました。「アサヒトラベル」という会社です。私が外国のことばかり考えていたので、神様が引き合わせてくれたのかもしれない、と後で思うことになります。
東京進出がアダに
東京でも商売をするようになると、扱う物の量も金額も大きく、チマチマしたことが好きでない私の性分には合っていました。取引はもちろん手形ですから巨額の金が動きます。勢いに乗っていたところでしたが、取引先の倒産に遭ってしまいました。
手形が不渡りとなり、我が社の損害額は約4000万円。昭和30年代ですから、今なら億を超える金額です。連鎖倒産してもいい規模ですが、私はこの危機をなんとか乗り越えることができました。
なぜかというと、線香花火の製造販売で財を成した祖父母が、他の家族には内緒で跡取りの私だけに株券などかなりの財産を残してくれていたからです。「小出家の危機を救います」と手を合わせて使わせてもらいました。あの財産を現在まで蓄えていたら億万長者になれたかもしれませんね。
ここで私は卸業から撤退する決意をしました。小出商店としては痛恨の決意ではありますが、実は私は卸業に未来がないことを薄々感じていたのでいい機会だと思ったのです。
その少し前、私はアメリカで日本とは全く違う流通の仕組みを目にして衝撃を受けていました。日本では銀行は金を貸し、卸業者は物を貸すということで、小売りより格が上みたいなところがありましたが、アメリカではすでに直取引が主流でした。私は「日本もこうなる」と確信しました。それを話すと、父も撤退に反対しませんでした。ですからこのときの損害は小出商店が取り返しのつかない事態になるのを阻止してくれたとも言えると思います。
小売り部門拡大へ
母と家内が中心で営んでいた小出商店の小売り部門は、東京育ちでおしゃれな母が自分の目で選んで仕入れる最新流行の化粧品やアクセサリーなどが評判で順調でした。卸から撤退した私は、小売り部門を拡大しようと考えました。
何度も申しますが、私は細々した商売には興味がありません。やるなら大きくやりたい。そこで、中央通りにファッション専門のビルを建設することにしました。これが私の「人生最大の失敗」への入り口になるなんて当時は気付くはずがありませんでした。
(2011年7月30日号掲載)
=写真=私(右端)だけにかなりの財産を残してくれた祖父(中央)