
卸から撤退したからには小売りで勝負しようと1964(昭和39)年に、私は南石堂町に3階建てのビルを建設しました。1階はアクセサリーや化粧品、2階は母のセンスで選んだ高級着物を展示試着できる畳敷きのコーナー、テナントの美容室、それに喫茶店を直営しました。3階が事務所です。
卸は男の世界でしたが、こちらは女性が中心。若い女性従業員も何人か雇いました。
まだ小さなスーパーができ始めたくらいで、大型店は丸光くらい。話題になり、お客さんの入りも順調でした。ところが外見の華やかさと内部事情は違います。実は、私はこのビル建設のために、小出商店創業以来初の銀行借り入れをしていました。しかし、予想した売り上げには達しません。テナント料と売上金を足しても利子分しか返済できず、元金に届きませんでした。
父に説得されて
ひどく心配した父は「このままではつぶれる。倒産したら橋の下で寝ることになるからビルは処分しろ」と何度も私を説得しました。父は一度も借金をしたことがなかったのです。卸の取引は手形でしたから、60日の手形をもらったら90日、90日だったら100日で決済すると借り入れなしで回せたわけです。
まさに若気の至りでした。ビルまで建てたからには後戻りできないという考えにとらわれていた私は、父に素直に従う気になれず、1年の猶予をもらいました。右肩上がりの時代のことですから、銀行のアドバイスも「貸しビルにすれば10年で返済できる」というもの。私はこれになびきそうになりました。
父は「俺はもう10年も生きられない。借金を残して死ぬのは絶対に嫌だ。目の黒いうちに売ってくれ」とますます強く訴えました。事業のストレスが影響したのだと私は思っていますが、父はがんを患っていました。
結局、ビルを売って全てを清算することにしました。祖先が築いて繁栄してきた小出商店を、3代目の私が終わらせてしまったことになります。大学で行商をする羽目になったときは神様を恨みましたが、今回は完全に自分のせいです。人生最大の失敗でした。未熟者が野望を抱くことの愚かさが身に染みました。
世間からは倒産と見られたかもしれません。でも、それは違います。従業員には1カ月分の給与を払って退職してもらいましたし、小さな企業としては精いっぱいの社会保険にも加入しており、社会的にやましいところはありません。借金を清算して、会社を閉鎖したということです。
人生をやり直し
この経験から学んだことは、いったん拡大した事業を小さくすることの難しさです。後に、妹が始めた「まい泉」の管理部門を担当することになったときも、好景気に乗っての出店の引き合いを受けることには慎重でした。同じ失敗を繰り返したら、あのとき救ってくれた父に浄土で顔向けができません。
いくら若いとはいえ、私もそろそろ40歳。それまでの事業の経験や人脈を生かして人生をやり直すには適当な時期だったと思います。選択の余地のない宿命の「跡取り」という荷を降ろしたのですから、もう格段に自由です。このような事態に先立って国際親善クラブを準備し、旅行会社へ投資をしていたのは単なる偶然ではなかったのかもしれません。
(2011年8月6日号掲載)
=写真=若気の至りで建てたコイデビル