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16 親善ク発足 〜初代会長に倉島さん 市長時代に意気投合〜

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 私が会長を務める(社)長野国際親善クラブは、長野冬季オリンピックの「一校一国運動」やボランティアで皆さんに知られるようになったと思います。


 1968(昭和43)年の発足以来、45年近い歴史をもつ団体です。初代会長は元長野市長だった倉島至さんで、私は2代目です。今や国際交流グループはたくさんありますが、当時「国際親善」といっても理解する人は少なく、全国的にもユニークな存在でした。


 私が倉島さんと知り合ったのは、小出商店をやっているころでした。倉島さんは54(昭和29)年に長野市長になり、58年に再選されるとクリアウォーター市(アメリカ合衆国・フロリダ州)と姉妹都市提携するなど、世界に目が向いていた私には興味深い施策を進めていました。


自宅へホームステイ

 ちょうどそのころ、市を通じてアメリカから数人のグループがやって来ることになったのです。日本での生活体験が目的でホームステイ先を探していると知り、我が家でベッツイ・ミッシェルさんという20歳の女性を受け入れることにしました。青い目の女性がいると人々が振り返るような時代のことです。「ホームステイ」という言葉はなく、報道でも「民泊」という言葉を使っていました。


 そんなご縁で倉島市長を訪ねる機会があった折、私は「市長は社会党だから付き合うなら中国だろうに、なぜアメリカなのか」と聞いてみました。すると意外なほどに私と意見が一致したのです。倉島さんは東大を出て官僚として朝鮮総督府にいたことから、韓国への贖罪(しょくざい)の気持ちと思い入れが強かったことは言うまでもなく、韓国以外ではアメリカとの関係が大切だという考えでした。


 「これからの時代は世界と交流しなくてはいけない」という点でも意気投合し、1時間ほども話し込んでしまいました。自民党の時代になったこともあり、倉島さんは3期目の選挙では当選できませんでした。


 どうしているかと思って自宅を訪ねると、当選したときは「ご祝儀」と言っていたタクシー会社が早々に集金に来た以外は誰も来ない-と、私を歓迎してくれました。政治の裏を垣間見たようで「政治家には絶対なりたくない」と思いました。

 

市長より文化人に

 次の選挙も視野にあった倉島さんに、私は「もうやめましょう。市長よりも上をいく文化人になりましょう。これからの時代は国際親善です。韓国を優先させて世界にネットワークをつくりましょう」などと申しました。父親くらいの年齢の倉島さんに向かって若輩者が失礼かとは思いましたが、「文化人か。そうだな」と私の考えに賛同してくれました。後に奥さまが「主人が悩んで熊のようにウロウロしていた」とおっしゃっていました。これが国際親善クラブ設立のきっかけです。


 倉島さんは朝鮮を制圧ではなくて独立させたかったのに、官僚だから国の方針に従うしかなかったわけです。私は倉島さんの、時代を見る目や考え方を尊敬していましたし、見習うことばかりでした。ただ、政党に所属したままで文化活動を広げるのは無理ですから「政治は断ち切ってください」とお願いしました。それを待ち、2人でお金を出し合って起こしたのが長野国際親善クラブなのです。

(2011年8月20日号掲載)


=写真=初めてホームステイを受け入れたベッツィさんとは今も交流が続く


 
小出博治さん