
倉島至さんと出会ったおかげで国際親善クラブを設立でき、私はそれまでとは質の違う充実感を得ることができました。倉島さんのように世界的な視野と先見性を持った人は周囲にそう多くはいません。
倉島さんが市長2期目のころ、私は南石堂町商店会の会長でした。そのとき、中央通りにアーケードを造る構想が持ち上がったのです。私は大反対したんですよ。アーケードを造ることで緑の木立がなくなり、善光寺に続く美しい景観が分断されて、長野市の特徴が失われてしまうからです。「アーケードを造るお金があったら駐車場を」と主張したのですが、多勢に無勢。どうにもなりませんでした。
無視されたアイデア
相手にされなかった私のアイデアの源は、アメリカで見た光景でした。郊外の大型店に車で買い物に行くため、中心市街地がゴーストタウンになる。アメリカで起きていることは長野の将来だと予測した私にとっての主張が「駐車場を」でした。
新しいアイデアを取り入れる許容量のない同質文化の中に安住することの弊害は大きいと、私は今も思っています。その後、ヨーロッパにも行くようになると、アメリカとは違う独自の社会システムをつくっていることを感じ、日本がアメリカの物まねばかりしていることが気になるようになりました。いろいろな国を見て日本を考えないといけないと思いました。
駐車場は、私が小出商店を閉じて商店会からも脱会した後で造ることに決まったそうで、オープン当初は、満車続きの駐車場代だけでも相当な売り上げになっているという喜びの声を商店街の人から聞きました。アーケードも、オリンピックの前年の1996年になって36年ぶりに撤去され、街路樹が植えられることになりました。今は長野らしい景観が戻っています。先見性があっても賛同する勢力がないと力にはならないことを学びました。
民間外交官で夢実現
その点、国際親善クラブでは、これからの開かれた平和な日本のためには民間の役割が大事であること、そのために私たちならではの活動を広めようという考えで一致していました。私にとっては、外交官になりたいという夢が「民間外交官」という形で実現することになったのでした。
倉島さんは元官僚で対外的な信頼度も高く経歴、人柄ともに会長にふさわしい方でした。事務局長の私は商人ですから、バランスとしてはちょうどよかったと思います。例えば長野冬季オリンピックが近づいたとき、親善クラブの資金づくりも兼ねて長野のガイドブックを作って販売しようと提案し実行したのも私です。スポンサーを募り、1万5000部も刷りました。
景気のいい時代だったとはいえ冒険でしたが、印刷を発注したカシヨさんとは親の代からの付き合いですし、今後のお付き合いも約束すると、前社長の清水栄一さんが100万円も寄付してくれました。おかげで200万円くらいの資金ができましたね。もし社団法人である親善クラブが倒れることがあっても、これだけあれば社会に迷惑は掛けないだろうと少し安心できました。ガイドブックは好評で書店で、もよく売れました。
英語や実務能力に長けた人も仲間になってくれ、親善クラブは活動を開始しました。私の方は、小出商店解散後、本格的に旅行業界に参入することになりました。
(2011年8月27日号掲載)
=写真=長野五輪の前まであった中央通りのアーケード