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04 〜戦時下で学校施設を充実〜

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 日中戦争が始まった翌年の1938(昭和13)年度の予算編成に際し、高野市長は「事変下の特殊事情とこれに誘因、頼みとする税収財源に弾力性を望み得ない実情とにより新規計画を一切抑制し緊縮をもって望む」と言明しました。


 しかし、実際には小学校4学級増、青年学校義務制実施に伴う教員俸給等の諸経費増額、前年の大雨による災害復興、飛行場建設など、数々の課題を抱えていました。


 38年度の新規事業として、兵士への慰問等の軍事援護費や防空費、移民奨励費等が計上され、前年度比32万円の増加となりました。


 それを補填するために新たに家屋税と特別地税を設定し、さらに特別戸数割増徴という実質的な増税政策を余儀なくされています。


 日中戦争が長期化するに伴い戦傷病死者の市葬、軍人、軍属の家庭への慰問、前線兵士への慰問袋発送費等が増額され、市財政は圧迫されていきました。


 戦時下の行財政活動の中で注目したいのは、37(昭和12)年12月完工した川端小学校の開校と、40(昭和15)年に市立中学校が新設されたことです。これは、長野市の都市化に伴う人口・就学児童数の増加に対応する教育施策の一環です。


 川端尋常高等小学校の通学範囲は、緑町・鶴賀七瀬・居町・川端です。学校施設は、敷地約3.1ヘクタール、総工費25万5500円、木造校舎3棟、講堂、特別教室等を備え「県下第一の完備した学校」と言われました。これまで後町小学校に併設されていた市立長野高等女学校もこの地に移転併設され、両校合わせて学級数31という大規模校が誕生しました。


 ところが、前述の如く40(昭和15)年には、市立中学校が川端学校の校舎を借用して新設されました。


 その上、42(昭和17)年には市立夜間中学校がこの地に開校して4校併立体制をみたのでした(43年に中学校は栗田地区に移転)。


 このような経過で設立をみた川端尋常高等小学校は、戦時下の41年に川端国民学校となり、47年には新学制下で市立川端中学校となりました(『長野市誌第6巻』)。


 主として高野市政下の学校施設充実策は、将来の長野市教育に大きな影響を与えるものでした。

(2011年9月3日号掲載)


=写真=出征軍人に贈られた寄せ書きの日章旗