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05 〜戦勝祝賀など行事の先頭に〜

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 高野は戦時中、長野市行政機関の長として、また市民の代表として戦勝祝賀、戦捷(せんしょう)祈願などの行事の先頭に立ちました。


 その例として「昭和十二年十月二十八日、市内の小学生尋常四年生以上、長野高女と長野実科高女の全生徒約一万二千人を駅前広場に集め、城山小学校庭まで感謝の戦捷行列を実施しました。"敵は幾万"日本陸軍歌を高唱しながら国旗を打ちふり打ちふりながら、紅白の幄幕(あくばく)を張り軒毎に国旗を掲げた中央通りの祝勝気分いやが上に沸きたち、街頭を埋めつくした市民は思わず万歳を唱和して歓迎した」との信毎記事も見られます。


 その年の明治節の市民運動会の前には「戦闘祈願愛国大行進」が行われ、中央通りと昭和通りの角から末広町までの間に市内各町から集まった約8000人は、9時の花火を合図に明治神宮に遥拝し、少年団のラッパ鼓隊を先頭に市長、市会議員、軍人分会、愛国国防婦人会などの後に一般市民が続きました。城山の県社で戦勝祈願の後、城山グラウンドで市民運動会の競技に。競技は事変下のため300メートル徒歩競争、600メートルリレー、マラソンの3種目でした。


 一方、壮丁に達した男子の入営も以前にも増して華々しく新聞で報道されるようになりました。1939(昭和14)年を例に取ると次のようです。


 1月、長野駅前の「感謝 皇軍奮闘 長野市」と書いた塔の前には、多くの市民が朝早くから詰めかけた。「駅には日の丸の海、歓送旗の林だ、怒濤のような愛国行進曲から軍歌と大群衆の合唱、割れるようなブラスバンドの響き」のなかを「吹雪を衝いた氏神様に心願こめた若者等は、東亜再建の大志にその熱血をたぎらせて、雄々しい一歩を踏み出した」。入営する若者の頬は「冴えざえと紅潮、瞳は明るく燃えて、足取りは若々しく力強」かった。「しっかりやってこいや」「大丈夫だ」「何の心配するでねえぞ」と「激励と誓いがはげしく交わされる」「固く握られる手と手、羽交いじめする母子」などと、その光景が「よくぞ! 男に生れける、入営風景 長野駅の興奮」の見出しで信毎は大きく報道した。

 〜以上の記述は主として『長野市誌』第6巻より引用〜

(2011年9月24日号掲載)


=写真=南京占領を祝ってのちょうちん行列