
「きどめ」という奇妙な名前は善光寺と深い縁がある。火災による幾度かの本堂再建の時、用材を"留め置いた"との由緒からだ。
北国街道に沿う旧荒木村(現・若里地区荒木)の産土神(うぶすながみ)で、鎌倉時代初期に諏訪神を勧請した。西日本からの善光寺参拝者は丹波島の市村渡しを越えれば北の丘陵に霞む善光寺が望まれ、ほっと一息、居並ぶ茶屋で休憩する場所だった。
元禄時代に現本堂の設計図ができ、棟梁の木村万兵衛は「信州所々深山、辺境まで巡見...(管轄の)松代藩士と打ち合わせを重ねた」と記している。
信州一円に出張して山林の巨木をチェックした。当初目当ての松本地方には、もはや良木がなかった。おまけに「河岸の田畑が荒らされる」と犀川筋の村落から反対運動が起きた。
仕方なく千曲川上流の佐久地方から主用材を調達することに方針転換。国道もトレーラーもない時代、切り出した材木はどうやって運搬したのか? 御柱祭のような人海作戦も限度がある。天竜川下りのように、単木や筏にして千曲川下りをした。犀川との合流点からは、川上りになった。

市街西部を流れる裾花川は以前、現在の長野駅周辺を乱流していた。本堂再建のたびに用材の運搬には苦労した。人力主体の川揚げ作業は風雨のたびに中断。木留大明神に祈ると老翁が出現し、南風を吹かせて手助けしたと伝承される。
「安産の御利益があります。物事がすんなりいくのです」「難しいビジネスもすんなり...風通しが良くなる」。そんないわれもあり、会社員風の男性が社殿に手を合わせていた。
「街中で、こんなに境内が立派で広い神社は初めて見たわ。ケヤキの巨木にもびっくり」。美術館帰りに近くの天満宮と観音寺を参拝してから訪れたという婦人グループ。「江戸時代の火災で宝物や古文書を焼失したので、お宝は樹齢500年を超すケヤキです。春の芽吹きが見事。秋の紅葉もすてき」と、近所の女性が話の輪に加わった。残念なことに数本の老木には「枝折れ危険。近寄るな」との警告板が掲げられている。
すぐ東にはホクト文化ホール(県文)の赤いレンガ壁が迫る。豪壮な旧家と瀟洒なマンションが混在。国道沿いのビジネス街に隣接している上、長野駅東口再開発の余波で荒木通り周辺は賃貸マンション、住宅メーカーの展示場のような様相だ。「人気の三輪地区と比べても、地価はそれ以上。今、長野市内では最高のホットスポットに鎮座している神社です」とは地元不動産業者のコメントだ。
(2011年9月10日号掲載)
=写真=ケヤキの巨木が茂る境内