記事カテゴリ:

18 旅行業界 〜独自ツアーを企画 人生上向きの手応え〜

18-koide-0903p.jpg

 小出商店の清算が済むと、外国への憧れから投資だけしていたアサヒトラベルという旅行会社の経営に加わることにしました。国際親善クラブを発足させた後ですから、1969(昭和44)年か70年ころでした。


 この会社は、東京本社で海外渡航自由化の波に乗ったアウトバウンドを扱い、米国のサンディエゴに日本向けツアーを売り出す支社の設立を準備していました。私は旅行業界に参入するための勉強も兼ね、米国支社の立ち上げに参加することにしました。


 時期尚早の企画も

 女性グループを集めては日本の観光地を売り込もうとしたのですが失敗でした。当時の一般の米国人は日本のことなど知らず、興味もなかったのです。結局、一つのツアーも実現できず支社は閉鎖、3カ月で帰国しました。私のすることは時代を先取りし過ぎるようで、米国人相手のインバウンドツアーというアイデア自体が時期尚早だったわけです。


 帰国後、アサヒトラベルの仕事をしながら国際親善クラブの事務局長でもあったため、外国と東京と長野を頻繁に行き来する生活になりました。外国に興味があり新しいことを考えるのが好きな私にとって、世界各地を下見し、オリジナルツアーを企画して売り出す旅行業はぴったりで、学生時代と違って勉強も暗記もちっとも苦になりませんでした。必要な資格も取得し充実した日々でした。


 ただ、海外旅行業界は大手の参入が相次ぎ競争が激化。数人でやっていた小さなアサヒトラベルは住友銀行系の会社と合併することになりました。ここに残ればサラリーマンとして安定したかもしれませんが、そんな気は毛頭ありません。


 辞めることにしたら、相模鉄道が旅行業で東京に進出したいので支社長にならないかという話がきたのです。相模鉄道といえば横浜では有名でも、東京では事実上ゼロからのスタートです。それは私の性分にも合っていましたし、旅行業のプロとして自信をつけていたので「大手に負けるものか」という気概で引き受けることにしました。


 相鉄観光(株)東京支社長だった72(昭和47)年からの6、7年間は、飛行機が離陸するように自分の人生が上向きになっているという手応えがありました。父が家業の閉鎖を覚悟してまでビルの売却を強引に主張したのは、結果的には私に合った道を歩ませるための遠回しの思いやりになっていたと感じました。


 当時の旅行業界はまだコンピューター化されておらず、例えばパリに行くにはどういうルートがあるか分厚い本で調べるのですが、好きなことですから片っ端から覚えましたね。JTBなどの大手には資金力でかないませんし、JALパックなどの既製品を売ってももうからないし面白くもない。他社がやらないようなユニークなツアーをスタッフと相談して組み立てては宣伝を打ち、旅行代金の回収には夜討ち朝駆けのようなことも自らしましたね。


  足場を再び長野に

 それでも長男の宿命といいますか、心は長野から離れられず、帰郷の意向を知った相鉄の社長から「お前はロッキード事件のような大きなことをやる男だから東京にいろ」と言われたことが懐かしいですね。世の中がロッキード事件で揺れているころ、足場を長野に戻すことにしました。私は40代の後半に差しかかっていました。

(2011年9月3日号掲載)


=写真=東京の旅行会社で忙しく働いていたころ

 
小出博治さん