
長野にも海外旅行ブームを見込んだ旅行会社が設立されており、私は八十二銀行の出資による昭和航空サービス(株)に常務として参画することになりました。1975年でした。
一方、仕事以上ともいえるくらいに力を入れていた国際親善クラブでは、副会長として倉島会長を補佐していました。長野市の姉妹都市との交流事業に参加という形でホームステイの受け入れはクラブの正式発足前から行っていましたが、もう一方で展開していたのは実際に外国へ行っての親善活動です。
倉島会長を補佐
朝鮮総督府に25年間勤務した倉島会長の「早急に韓国と友好関係を築かなければいけない」との意向で、韓国を何度も訪問しました。日本の統治下で日本語教育を受けた人たちが存命で、日本語で交流できるうちに関係を改善しておかないと大変なことになってしまう、というのが倉島さんの持論でした。
私は、組織というものは代表者の考えが尊重されるべきだと思っているので、倉島会長のときは自分が表に出るようなことはせず、倉島さんの思いを実現させる脇役に徹していました。ただ私が旅行業のプロだったことがクラブの発展に役立ったことは間違いないと思います。
それまでの経験と培った人脈で、国際親善の目的に沿うツアーを組んで募集をかけました。大使館を通じて現地の高官や韓国の人々に会える手配をし、なるべく韓国の経済支援になるように大韓航空を使ったりもしました。想像以上の強い反日感情にはびっくりして「これを変えるのは大変なことだ」と感じましたが、韓国の人々を大切にしていた倉島さんが行くと大歓迎を受けました。どういう職務にあっても良心に従った行動をする立派な人だと、あらためて尊敬しました。
このように普通のツアーとは違う体験ができるのですから、一度参加すると感動して、たいていの人が国際親善クラブの会員になってくれ、会員数はどんどん増えました。韓国では私たちとの交流の様子を「日本人は鬼ではなく優しい」と報じました。民間外交として貢献ができたと思っています。
また私は外国人を日本に招くインバウンドも得意だったので、クラブの会員がホームステイを受け入れる旅も企画しました。私にとって初の海外だったタイでホームステイをした時から、こんなに素晴らしい民間交流はないと思い、旅行業に入って以来ずっと展開したかった事業でした。
文科相から表彰
外国人にとっては日本の生活、文化習慣を知ることができるし、受け入れる側にとっても居ながらにして異文化接触ができます。しかも、その後も家族のような付き合いが続く場合も少なくありません。全国に先駆けて行ったこの活動は、2001年に文部科学大臣から表彰されています。
昭和航空では、外貨を発行できるよう両替商の免許を取り、発券業務の許可も得て積極的なビジネスを目指しました。しかし、親会社が「JALパックを売っていればいい」というような方針で私の考えや性分に合いませんし、そもそも質の良いものを安く提供しないと商売としてやっていけるわけがないのです。9年くらいやって手を引いたら、後にアルピコ観光に吸収されてしまいました。
(2011年9月10日号掲載)
=写真=昭和航空サービスの香港マカオツアーで