
国際親善クラブの活動はボランティアですから、昭和航空サービスを辞めて無職というわけにはいきません。ちょうどそのころ、妹から「お兄ちゃん手伝って」という依頼がありました。
妹は1965(昭和40)年に有楽町の三井ビルの地下で「まい泉」というとんかつの店を始めたところ、手作りでうまいと大当たり。年々、事業が拡張していました。商売の好きな妹が小出商店の跡継ぎになっていたら...と思うこともありましたね。
妹の会社が急成長
製造が追い付かず長野に工場が必要だというものですから、自宅の横に工場を建設して私が管理することになりました。私には、小出商店の小売部門を一気に大きくしようとして失敗した苦い記憶が染みついています。次々に来る出店の引き合いにはかなり慎重でしたが、それでも約50店舗を有する従業員約600人の会社に成長しました。サントリーの傘下に入る3年前まで長野工場を稼働させ、ながの東急百貨店内のレストランは私が責任を持っていました。
飲食業というのは実に大変です。一度でもまずいものを出したらお客さんは離れます。店舗を増やすと目が届きにくくなる。入荷する肉の味が常に一定とは限りませんから、毎日味見をしました。
幸い私は食べることが好きなので、おいしさの追求には手間を惜しまず、漬物も研究して長野工場で作り、評判は上々でしたね。こちらで稼いでは国際親善の活動に使うというふうにして今日に至っています。国際親善クラブの事務所も、この工場跡を使っています。
このような二足のわらじを履いているうちに、長野では冬季オリンピック招致の機運が高まりました。私が世の中で知られるようになったのはオリンピックのおかげなのですが、実は招致運動には関わっておりません。もちろん長野で開催されたらうれしいが、まずそれはないだろう、と思っていました。というのは、私が見てきた各国の五輪開催都市の印象と長野の事情が違い過ぎると思ったのです。
松本と長野の仲が良くないというように、地域間の連携に欠けるような所での開催は難しいだろうというのが正直な気持ちでした。国際親善クラブの中には招致運動に熱心な会員もいましたが、それは個人レベルの取り組みで、私もクラブもそれまでと同じように国際交流活動を行っていました。
米へボランティア研修
ところが、あれよあれよという間に開催が決定しました。1991(平成3)年のことです。NAOC(長野冬季五輪組織委員会)が結成されると国際交流関係のボランティア団体に協力要請がありました。
私はそれ以前に米国でボランティア研修を受けていました。(財)日本国際交流センターの毛受敏浩(めんじゅとしひろ)氏の推薦で、全国から10人のメンバーの1人に選ばれ約3週間、各州のボランティアの様子を視察しました。長年のホームステイボランティアの実践に研修での理論が加わり、両面から自信を深めていたところでした。
入院していた会長の倉島至さんは、「国際親善クラブを頼む」と言い残し、93年に亡くなりました。もともと私と倉島さんが設立した団体であることを理事たちが知っていたわけではなく、次期会長選びは難航の末、私が就任することになりました。五輪と重なり、普通なら老後の心配をする年齢になって怒濤のような日々が始まりました。
(2011年9月17日号掲載)
=写真=妹が始めた「まい泉」の長野工場。今は国際親善クラブの事務局に