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33 「死」とどう向き合うか5

 若いときはさほどでなかったことが、それなりに年を重ね60の坂を越すようになると、無関心だったことに関心が持てる(目が開かれる)ようになることがある。


 私の場合で言えば、いろいろある中で動植物に対してもそうであった。おしなべて言えば、自然界に対しても漠然と考え思い描いていたという域を出なかったのである。「今ごろになって何言ってるの」と嗤(わら)われるかもしれぬが、実際そうだったのだ。


 理工系はダメと...

 植物を例に取ってみると、私にも路傍300種とはいかないまでも、人並みに植物講座の席に連なったりしたことがあった。だが、自分を理工系はダメとてんから決めつけているところがあって、また、ほかのことの忙しさにかまけて、この年になってノコノコ手を出してみたところで、付け焼き刃程度のことだと諦観?。むしろ、これ(この分野)は他人さまにお任せしていた、自分の都合のいいところに逃げ込んできたというのが正直なところだ。何しろ草の名前も、単なる知識として覚えるために覚えるという体たらくで、結局は物にならず、日がたてばみんな忘れているという始末だった。


 そんな次第で草の名、蝶の名など物の名は一向に覚えられないまま、覚えようともしないまま、老い先を数える年齢にまで立ち至ってしまった。今さらどうしようもなく諦めきっているのだが、さればといって、実は後悔もしていないのだ。


 オオバコと菊と蛙

 ところで、そんなわたしであるが、老来とみに動植物に対して格別にいとおしさを覚えるようになった。同じ地球に生を享けて、同じように呼吸をし、それぞれに食べ、排泄したり、愛し合ったり、交尾をしたり、地球の一員として仲間として、扶けたり扶けられたりして共存していることを強く思うようになったのである。たぶん私同様の思いを持つ人が多かろうと思うのだが。


 花には花の、実には実の、葉には葉の、根には根の、同様に翅には翅の、角には角の、色といい、形といい、鳴き声といい、それぞれが全く違うものでありながら、そこには言葉に尽くせない造化の妙があって、畏敬の念さえ覚えるのである。


 深さ6センチほどの小鉢に生えたオオバコの根を抜いてみたことがある。葉は8枚で高さは数センチ、まだ若葉状のものであったが、根の最長は18センチ、それが大小20数根もあって、さらに支根もあり、根の総量(延長)は4メートルにもなるのだった。


 菊の葉の一枚の先端を4分の1ほど剪って砂に挿して置くと、クラゲのような根が出て、やがて大きく成長して見事な黄菊の大輪を咲かせたこともあった。種にと言えば納得するのだが、一枚の菊の葉にもその菊のDNAの全機能が集約されていることの不思議さ。


 蛙と向き合っていると、よくよく奇妙な顔で思わず笑ってしまうほどだが、何のことはない。向こうも何だこの変な奴は、と思っているに違いない。なんの縁もゆかりもないもの同士が互いに相手を怪しまず信頼しきって、そこにじっとして向き合っているのだから愉快だ。なんともかわいく、優しい言葉を掛けたくもなる。


 どれもこれも、そこには生きることに倦むことなどさらになく、十全に生ききって、たくましく立派な姿だけが見えてくる。


 存命の喜び

 本稿(29)で『徒然草』から「死は前よりしも来らず。かねてうしろに迫れり」と吉田兼好の死生観について述べたが、その兼好はこうも語る。


 されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。

 存命の喜び、日々に楽しまざらんや。(九十三段) 


と。自分はいま生きてここに存在している。これに勝る喜びがあろうか、生きていることの喜びを楽しまないで、どうしようというのだ、というのである。なんという力強さだろう。鼓舞され励まされるのである。 

(2011年9月3日号掲載)

 
美しい晩年