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01 バレエ王国 〜高いレベルを切り開く〜

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 長野はクラシックバレエのレベルが高いです。国際的に活躍するバレリーナを輩出していることをご存じの方は少なくないと思います。なぜ長野が、この規模の地方都市には珍しいほどの高いレベルにあるのでしょう。


 芸能好きの母の影響で、私は5歳から西洋舞踊を習い始めました。戦時色が濃くなると憲兵に目を付けられましたし、そんな世相などどこ吹く風と、長髪でモダンな格好を通していた舞踊の恩師は追いやられるように、慰問団の団員として支那(現中華人民共和国)へ送られました。


 父は銀行員で大変に保守的な人でした。当時「裸踊り」などと揶揄された西洋舞踊に娘が夢中になるのは面白くなかったのですが、器量良しで頭もいい姉がお琴もお茶も上手で父のお気に入りだったものですから、関心が私に集中しなかったのが幸いしましたね。


 踊りを続けることができたのは、母のおかげです。裕福な家庭に育ち、絹の銘仙や錦紗の着物姿でたたずんでいた母が、食糧不足の時代になると、プライドの高い父の反対にも屈せず、泥だらけになって犀川の河川敷を自ら開墾し、豚まで飼って5人の子どものための食べ物を作り出し、高額だった踊りの月謝も払ってくれたのです。


 終戦の年、私は18歳でした。「お姉ちゃん、踊り教えて」と、近所に疎開していた女の子にせがまれるまま、自宅前の工場の食堂のテーブルを片付けて教え始めたところ、次々と子どもたちが集まってきたものですから舞踊教室にしました。これが、今も私が団長を務める「長野バレエ団」の前身です。ただ、当時はクラシックバレエというものを知る由もなく、音楽に合わせて西洋舞踊を踊っているだけでした。


 1950(昭和25)年に「バレエの神様」といわれていた小牧正英先生が長野を訪れ、クラシックバレエへの転向を強く勧められました。この時から私の教室は長野県初、全国でも田舎にしては草分け的存在のクラシックバレエ教室となり、国内外で活躍するバレリーナが巣立つようになったのです。


 私の歩みはそのまま「バレエ王国」ともいわれる長野のバレエの歴史であり、昭和と共に歩んだ世代の女の生き方としても先駆的であると思っています。

(聞き書き・北原広子)

(2011年10月29日号掲載)


倉島照代さんの主な歩み


1927(昭和2)長野市新田町に生まれる。後に南県町に転居

  32(7)後藤澄夫舞踊研究所で舞踊を習い始める

  33(8)山王尋常小学校(現山王小学校)に入学

  36(11)長兄の病気療養のため若里上河原へ移転

  39(14)県立長野高等女学校(現長野西高)に入学

  43(18)女学校卒業。長野地方貯金局勤務

  44(19)醤油検査所勤務

  46(21)「ゆりかご舞踊研究所」創設

  50(25)結婚。同時にクラシックバレエに転向

       小牧バレエ団から交代で講師に来てもらう

  51(26)第1回目の発表会を権堂の相生座で行う

       以後、現在まで毎年公演を実施

  65(40)離婚。松本市へ転居。生徒の引き抜きで150人の生徒が5人に。松本教室を本拠地に、長野と往復の日々

  71(46)本拠地を長野市に戻す。上松教室新築

       松本市と小諸市に出張して教える

  73(48)現在の「長野バレエ団」に改称

  76(51)初めて出場した全国舞踊コンクールで永井美晴さんが第3位。指導者賞受賞。以後、同賞の常連に

  80(55)長野県バレエ協議会を発足させる

  82(57)舞踊生活50周年記念公演「白鳥の湖」全幕

  84(59)宮内真理子さんが全国舞踊コンクール第2部で1位に

  86(61)佐藤明美さんがローザンヌ国際バレエコンクールで「パリ舞踊財団賞」受賞

  89(平成1)宮内真理子さんがローザンヌ国際バレエコンクールで「スカラシップ賞」受賞

  91(3)県知事表彰「芸術文化功労賞」

  92(4)(財)松山バレエ団より「芸術賞」受賞

  94(6)柳井美紗子さんがローザンヌ国際バレエコンクールで「エスポワール賞」受賞

  98(10)文部大臣表彰「地域文化振興」

2010(22)NAGANO全国バレエコンクール実行委員長として第1回目を開催。以後、毎年開催

  11(23)第18回「信毎賞」受賞

 
倉島照代さん