記事カテゴリ:

22 鼻見城(飯綱町三水)〜古城の風情残す山頂 眺望は県自然百選に〜

22-yamashiro-1022p.jpg

 飯綱町牟礼から地方道を三水へ向かう。三水はリンゴの生産が全国の1%を占めるというだけあって、とにかく果樹園が多い。城跡へは町裏集落にある生活改善センター前から2つのコースがあり、いずれもよく整備されていて、城跡を経由してセンターに戻る循環路となっている。センターから右折して針広葉樹林の歩道を進むと30分で鼻見山頂の城跡に至る。


 本丸は東西に長く6×30メートル程度。中央にはあずまやが立ち、隣に秋葉社の石祠(せきし)が2つ、赤松の古木が数本あり古城の風情を残している。


 北方には本丸を囲むように帯曲輪(くるわ)を巡らし堀切で防護し、その中央には山井戸が復元されている。1987(昭和62)年に長野県の自然百選に指定されたという。本丸から見る麓の集落や北信濃の山容などの眺望が、鼻見城跡の見どころであろうか。循環コース帰路の歩道は新旧の落ち葉が重なり、歩むごとにキュッキュッと晩秋の空気に鳴ってすがすがしい気分で下山することができた。


 城主は隣接の若宮に本城を持つ芋川氏。戦国期の城主は芋川親正で武田軍の信濃侵攻により降伏したが、織田信長によって武田氏が滅びると北信濃は織田家臣の森長可が領置することとなった。1582(天正10)年、織田氏の支配に反発した芋川氏、島津氏は反織田を掲げる信濃国人を大倉城に集結させ森軍に反抗した。


 「善光寺一揆」「芋川一揆」ともいわれているが、一揆軍は各地で激戦の結果1000人が、さらに大倉城に立てこもった千数百人が戦死。壊滅的打撃を受け、首謀者の芋川親正は上杉氏を頼って越後路を落ち延びた。


 同年、本能寺で信長が討たれると北信地方は上杉氏の支配となるが、芋川氏は信濃復帰もつかの間の1608(慶長3)年、上杉氏の会津移封に従って信濃を離れた。本能寺の変が数カ月早ければ森軍は信濃から撤退しており、一揆の勃発は避けられただろうと思うと、歴史の巡り合わせというものは一瞬にして多くの人々を悲惨な状況に追い込んでしまうことを痛感する。

(2011年10月22日号掲載)


=写真=鼻見城の本丸跡

 
続・山城紀行