
今年のお盆には、アメリカから来たベネット・ブラックさんという高校3年生の男子が我が家にホームステイしました。実は、この子は祖母、母に続くブラック家からのホームステイ3代目なのです。
私はタイでホームステイを経験し、国際親善にとってこれほど役立つ活動はないと確信し、国際親善クラブの発足当初からホームステイを中心事業にしてきました。倉島至さんが長野市長のころ、米国フロリダ州のクリアウオーター市と姉妹都市提携し、1962(昭和37)年には、国際生活体験協会という米国の非営利組織を通じて長野を訪れたベッツィーさんを受け入れたのも我が家でした。
米国に「コイデ基金」
ベッツィーさんは弁護士になり、94(平成6)年に日米交流のための基金を設立しました。それに、彼女はなんと「コイデファミリー基金」と名付けたのです。手紙でそれを知った私と家内は、お礼を兼ねて米国の彼女を訪ねました。彼女は「国際交流を通じて人を育て、草の根の交流で世界と長野をつなぎたい」と基金設立の理由を話してくれました。
今回のベネットさんの来日がかなったのも、この基金のおかげです。ベネットさんの祖母ヘレンさんは長野県がミズーリ州と姉妹都市提携した際に、またベネットさんの母ロビンさんは長野市初の英語講師として、それぞれ来長。我が家にホームステイしました。祖母・母・息子と3代にわたって続いたわけです。ベネットさんは私がベッツィーさんに取り次ぎ、コイデ基金から支援してもらいました。交流が3代続くのも画期的ですが、我が家が基点になって新たな交流が広がったのですから国際親善活動冥利に尽きますね。
「姉妹都市」というのは行政が締結するものです。こういうことをすべきという規定は何もないので、締結したものの実体が伴わない自治体が多い中で、長野市は交流が活発です。「なぜなら、民間の国際親善クラブが実働部分を担ってきたからだ」と言って過言ではないと自負しています。
ノウハウも人脈もない行政職員だけでは難しい交渉事のために私が自費で渡米したこともありますし、受け入れのホームステイも派遣団の団員もクラブのメンバーが協力することで継続が可能になったわけです。
長野国際親善クラブの発足から43年。私が一貫して心掛けてきたことは、このような「官民協働」です。民間だけでは資金面で継続が難しい。これは身に染みています。いろいろな国の国際交流団体と交流事業をしてきたのに、今も残っているのはウチくらい。民間団体がたどりがちなのは、発起人は熱意で頑張っても、世代交代ができずに立ち消えという道です。
一校一国運動でも相手校は大使館を経由して選び、こちらは当クラブ経由で学校長の名前で契約書を交わすというふうに、必ず形式を整えるようにしています。行政だけでも民間だけでも活動を続けることは難しい。続けることに意義があるのだから、両者が協働するのが一番いいというのが私の考えです。
引退どころでは...
今の私の悩みは国際親善クラブの存続です。私の意志を継ぎ、今後引き継いでくれる人がいるのかどうか。後継者探しと一校一国運動の継続が課題ですね。まだ83歳。引退どころではありません。私は自分の生き方に悔いはありません。
(2011年10月22日号掲載)
小出博治さんの項終わり
=写真=長野五輪観戦に3代で我が家にホームステイしたブラック家