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36 「死」とどう向き合うか8

 前回は岩波茂雄が1898(明治31)年、18歳の正月、単身で伊勢参拝ののち京都の妙心寺塔頭(たっちゅう)(大寺に所属する別坊)の大法院に佐久間象山の墓を訪ね、その足で遠く鹿児島の城山に南洲西郷隆盛の墓前にぬかずいたことを書いた。


 あの魁偉(かいい=顔や体が人並み外れて大きく立派な様)にして、剛毅不屈な青年・岩波茂雄がいかなる思いをもって墓前に進み出で、そこに平伏したのか、察して余りある。


 青春懊悩

 私はいま、岩波茂雄の手によって「明治33年7月13日」(20歳)と裏書きがあるという肖像写真を見ている。一点を見つめる眼光と、きりっと結ばれた口元。そこには、やがて必ずや大事をやってのける面魂が、すでにあってたじろがされるほどである。

 誰にも青春懊悩の時代がある。岩波の年譜をのぞいてみよう。


 ▽20歳 第一高等学校受験、不合格。神経衰弱のため伊豆の伊東に転地療養。夏、信州上田で内村鑑三の講演を聴き、大きな感銘を受ける。


 ▽21歳 一高合格。ボート部に入る。10月、足尾銅山鉱毒事件に関心を持ち、現地を見る。


 ▽22歳 一高生の名誉を傷つける談話を新聞に公表した日本女学校長を問責謝罪させる。トルストイの『我が懺悔』を読み、深く感動する。


 ▽23歳 一高生藤村操が「巌頭之感」を残して華厳(けごん)の滝に投身自殺。その衝撃のため悲嘆の日々を送る。7月13日〜8月23日までの40日間、信濃町野尻湖の琵琶島(弁天島)にこもる。7月23日夜、母うたが諏訪から風雨を衝いて琵琶島を訪(おとな)う。秋期試験を放棄したため原級にとどまる。


 ▽24歳 学年試験に落第。一高を除籍される。


 ▽25歳 日曜ごとに内村鑑三の聖書講義に出席。小山内薫、志賀直哉らと知り合う(「信濃教育」984号参照)。


 ▽33歳 岩波書店を開業し、34歳のとき処女出版として夏目漱石の小説『こころ』を刊行。


 「岩波文庫」は47歳のときの刊行で、廉価をもって良書を世に送る企てであり、その文化的重量感と存在感は、人生の伴侶と呼ぶにふさわしかった。


 私なども岩波文庫を手にするときは、巻末にある岩波の「読書子に寄す」と題した次の一文を姿勢を正して音読し、一礼してから頁を開くことを習わしとしてきた。


 真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。...それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。...その達成のため世の読書子とのうるわしき共同を期待する。


 野尻湖の島にこもる


 懊悩は真剣に生きていることの証しである。岩波茂雄は年譜で見てきたように、学業を放擲して40日もの間、野尻湖の琵琶島にこもった。古びた社殿の板の間に筵を敷き、自炊をした。食糧は湖を400メートル泳ぎ渡って調達し、頭上に載せて運んだという。茂雄は『思ひ出の野尻湖』の中で"もっとも劇的な場面は母の来訪である"と書く。また回顧録『誠実を教えた母』でこう記す。


 風雨が激しく荒れた晩、神殿の板の間に横になり乍ら、私はこの大自然の怒りをじっと聞いてゐました。ふと雨戸の隙間がボーッと明るくなったと思うと、黒い人影が入って来ました。驚いて起き上がると、それはびしょぬれになった母でした。無理に船頭にたのんで船を出し嵐をおかしてやってきたのです。  

〈つづく〉

(2011年10月22日号掲載)

 
美しい晩年