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02 生い立ち 〜5歳から舞踊生活 芯の強い母のおかげ〜

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 私は戸籍上は昭和2(1927)年1月2日生まれですが、本当は昭和元年12月30日生まれです。昭和2年は卯年で、元年だと寅年なんですね。子どものころはいつも下を向いて歩くほど内気なウサギみたいだったのに、実はトラだったからこそ、この時代の女らしからぬ人生を歩んできたのだと思います。


 父は銀行員でした。勤務先の信濃銀行は後に倒産してしまいました。母は富山県滑川の大地主の家に生まれ、父親が事業に失敗したことから、7歳ころ倉島家の養女になったそうです。倉島家というのは、中央通りが開通する以前からの新田町辺りの地主ですから、資産家といっていいでしょう。


 私は新田町で生まれ、じきに南県町に転居しましたが、どちらも長屋で、自宅用以外は貸していました。母は裕福な育ちそのまま、絹の着物姿で「さようでございますか」などと上品に振る舞い、接待なのか、よくお酒を飲んで帰る父を何時まででも待つ良き妻ではありましたが、芯の強さは半端ではありませんでした。


 母は私を父は姉を

 母の父は、あっちの山に金が出るといっては買い、銀が出るといっては掘るというような、まさにヤマ師だったようです。戦時中の食糧難の時、母がお嬢さま育ちらしからぬたくましさで子どもたちを食べさせる斬新なアイデアを次々と思い付いたのも、その血を引いていたからだと思います。


 母は私を特別にかわいがってくれました。自分と似たところを私に感じていたのかもしれません。


 きょうだいは、2人の兄に姉、弟の5人です。父は姉を特にかわいがっていましたね。父の生家は若里の地主で、倉島家には婿養子で入り、信濃銀行では支店長になりました。私たち子どもに「保証人にはなるな」「実印は隠しておけ」「無尽はやるな」とよく言っていました。銀行員だったせいもあるでしょうけど、実は倉島家の先代が無尽の貸元をやって資金を回収できなくなったり、貸した金が戻ってこなかったりで大損したのを知っていたからだったようです。


 家の近所にはお琴やお茶の先生がいらして、姉が習いに行くのに私も付いて行きましたが長続きしませんでした。姉はお稽古事も運動も勉強も何でもでき、美人で、しかも強くて頼りになりました。兄が泣いて帰ると「誰にやられた!」と棒を持って仕返しに向かっていきました。健康優良児として市から表彰されたこともありました。


 父はこの姉がお気に入りで、母は私。男の子たちは、まあついでに育てているというような感じでしたね。今は、残っているのは私だけになってしまいました。


   来年は舞踊80周年

 私は来年、舞踊生活80周年を迎えます。芸能が大好きだった母が、中央通りの甲州屋という材木会社の2階にあった舞踊教室に、5歳だった私を連れて行ったことが、長い舞踊生活の始まりでした。


 当時、西洋舞踊は「裸踊り」「河原乞食」などと言われており、学校ではからかわれ、戦時色が濃くなると憲兵に目を付けられ、保守的な父の容認できるものではありませんでした。それでも続けることができ、長野のクラシックバレエの歴史をスタートさせ、それを今日まで刻むことができたのは、母の強い意志のおかげです。

(聞き書き・北原広子)

(2011年11月5日号掲載)


=写真=母ときょうだいと一緒に(左端が私)

 
倉島照代さん